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【歴史 日本】 日本の降伏 七誌さんのHPにおける私の昨日の投稿を再録する 私は左翼が大嫌いである では、私は右翼か?と言うと、右翼でもない だいたい、左翼も右翼も、ちゃんとした思考ができない障碍者だと思う そういう私の立ち位置を説明するために この七誌さんでの私の発言が好適かと思って引用する ―― 私の投稿 ―― 〇〇〇〇さんが、七誌さんに異論を唱ええられている ーーーー 七誌さん >太平洋戦争の末期は、誰も終戦を言い出せないままに、おどろくほどどうでもよい議論がなされていたという。 〇〇〇〇さん >馬鹿な事を言いなさんな。誰も終戦を言い出せない?終戦の仕方を巡って死ぬ程議論してただけでしょ。そんなの当たり前だよね、「負け方」を議論しなければ、敵の恣に無茶な条件を押し付けられたり、最悪は国が消滅する事になるのだから。 一度始まった戦争を止める為の議論が無駄な議論なら、・・・ 早く降参しとけば良かったのにとかいう阿呆は、プロレスかなんかの見過ぎじゃないんですかね(笑) ーーーー とりあえず、七誌さんの発言部分に関して 下記の資料に注目しました ーーーーーーー 日本の降伏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ポツダム宣言受諾までの経緯 1944年(昭和19年)7月、サイパンの戦いでサイパン島が陥落すると、岸信介国務大臣兼軍需次官(開戦時は商工大臣)が東條英機首相に「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言した。 これに対し、東條は岸に「ならば辞職せよ」と辞職を迫った。ところが、岸は東條配下の憲兵隊の脅しにも屈せず、辞職要求を拒否し続けたため、閣内不一致は明白となり、「東條幕府」とも呼ばれた開戦内閣ですら、内閣総辞職をせざるを得なくなった。 しかしながら、憲兵隊を配下に持ち陸軍最大の権力者でもある東條が内閣総辞職して、後継内閣の背後に回ったため、その後の内閣も戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸が半ば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら公然と検討しにくいという状態が続いた。 1944年(昭和19年)以降の連合国軍の反攻による日本列島への空襲は時間の問題であったため、戦争終結への動きは、この後も水面下で続いた。 東條内閣の後継となった小磯内閣は、本土決戦を準備しつつも、和平工作を秘密裏に模索した。 (中略) この間の1945年2月、元首相の近衛文麿を中心としたグループは、戦争がこれ以上長期化すれば「ソビエト連邦軍による占領及び“日本の赤化”を招く」という危険性を訴えた上で、戦争の終結を求める「近衛上奏文」を昭和天皇に献言した。 ところが、昭和天皇はこれを却下し、この工作を察知した憲兵隊により、吉田茂・岩淵辰雄・殖田俊吉らいわゆる「ヨハンセングループ」が逮捕された。 そして昭和前期の日本軍・政治家・官僚は、「国体護持」を主張しつつ、もはや勝利の見通しの全く立たなくなった戦争を、更に神風特別攻撃隊まで編成して、無謀な戦闘を継続させた。 (後略) ーーーーー これを読む限りでは 私は、日本のアホ軍部は、七誌さんのご意見に近い状態じゃなかったかと思いますがね 軍部および 「戦争の終結を求める近衛上奏文」を却下した昭和天皇!! 彼ら日本のトップが終戦の方法について 「国民のためを思って、合理的に真摯に」話し合っていたとは、とても思えませんがね そもそも、貴我の戦力・産業力の試算無しに 終戦の出口戦略を、ほとんど考えていないまま無責任に戦争を始めた輩 戦争とは一般的にそのようなものかもしれませんが、それにしても それなのに「終戦の仕方を巡って死ぬ程議論してた」? 残念ながら「兵隊は日本 将校はドイツ」というじゃないですか 遅まきながら慌てふためいて、国民を無視した、自分達の面子や都合ばかりを考え、方向性を間違えた議論を、死ぬほどしていただけでしょ 戦後、残された大量の記録テープを再生しながら、生き残った元将校たちが集まって今更ながら、反省している会話の内容を記録したテープが残っていますが、それらを聴いていると、日本軍というものの quality に絶望してしまいます とはいい条、それでも実は、日本は 開戦以前には米国との戦争の勝敗について ゲームの理論的シミュレーションを試算していた事実がある その試算の結果は「敗戦」と出た! しかし、東条英機がそれを握りつぶし戦争に突入 何百万人の死者をだした こういう合理性皆無のインパール的体質 これが戦前の日本軍国主義です (2021年01月12日 23時07分17秒)
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最終更新日
2021.01.15 21:03:34
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