会話無きブログ また、思いついて書き流してみるが 私のブログにコメントが来なくなって久しい ただ、これは、なんどもかいていることなのだが 私のブログに限った話では無く ブログ一般に言えることなのであって その原因というのも 「ブログ」という起承転結のある比較的長文のSNSの衰退 および 「短文の電報の様なNS」に慣れてまともな文章を書かなくなった世代への交代 そういうものが根底にあるのだろう、と推察するばかりだが いずれにしてもブログへのコメントが途絶え 実質、ブロッガーはみな、「一人語り」を延々と継続している ということになる まあ、ブロッガーの平均年齢も高齢化しているから この先に待っているものは さらなる「ブログの絶滅」になり 一定レベルの個人ベースの意見・主張の場というものが ほとんどなくなってしまうんだろう ❏ ❏ ❏ ❏ しかしながら、20数種いたという人類の種の中から 唯一「現生人類」が survive した奇跡は 彼らの口蓋に構造的変化が起きたことから 多彩な発声・会話が可能となり それが集団コミュニケーションを可能にして 野獣を屠り食料とし、ネアンデルタール人との競合に打ち勝った そういう歴史があるわけで その「音声・口頭によるコミュニケーション」は さらなる「言語の確立」となり 音声から「視覚的な記録が可能となる文字」の発明となり 紙、輪転機、無線、ラジオ、テレビ、internet それらが今、我々の communication を assist しているわけだが 寄り道・脱線が長くなったがこれはいつものことか?(笑) 要するに 「集団生活者」であって 「集団欲を相互のつながりを基盤として生きている」我々は 「会話」無しには生きてゆけない 泳ぐことをやめると死ぬというマグロなどの回遊漁 のようなものである ところが、この私の場合は、特に、なのだが 現役のころは communication が命の商社マン・・・であったわけで 単身、中東という、瘴癘(しょうれい)の地にあっても アラブや英米のコンサルタントと心を開いて会話し 人脈を構築して、多くの大型案件成約につなげたわけだが それが今、故郷の大阪にUターンしてしまえば 東京時代の人間・友人関係はみな消滅 長年、友人は一人もいない(笑) 生まれ育ったとはいえ、大阪の人間とは 波長が合わず、そりが合わない そもそも大阪人は 形而上的な会話を好まないし (頭の中にあるものは形而下のものばかり)(オイオイ) 教養などを改まって意識するのは別世界の出来事だと思っている まあ、これは極端な見方であって、誰もがそうである訳も無いが ただ、そういう風潮は、特に昨今のテレビなどにあおられて 大阪人はそうあらねばならぬと思い込み ますます強くなっているような気がする これは私の被害妄想かもしれない(笑) 居酒屋などに行っても少なくとも内容のある会話ができない どうも大阪の超大企業、吉本に勤務する人ばかりのようだ (そても妄想) 困ったものである(笑) おまけにネットにおいても 昔はともかく 今は少数の例外を別にして ブログにはコメントが来ないし 近年、ある程度親しくしていたネットフレンドさん達も 相変わらずいい歳をしながらネット戦争などに夢中になっていて(笑) そういうものになじめない私は stand alone 状態である ただし、そういう私も、以前、そういう「ごっこ」に席貸しをしていた そういう暗い過去がある(笑) つまり現状は ブログを書くことを output とすれば コメントという input が無い 会話という交易が成立せず 交易の収支は、「出超」なのである(笑) 鈍い私にも、これが精神的にいい訳はない 私も一応 human being なのである(笑) 回遊魚である、という考え方もできる となると、そろそろ この私も、ハートが枯渇して ワクチンの副反応も相まって(笑) 三途の川の渡しの付近まで approach しているのかもしれない 三途の川の渡しの船賃は、六文銭だと聞いたことがある 私は今、日本円とUSドルとユーロの小銭しか持っていない 昔我が家には先祖が使った寛永通宝などの古銭がいっぱいあったが もう手元には無い 三途の川の渡し場には 外国通貨を扱う両替商がいるのだろうか?(笑)
ドラクエのトルネゴでも、いいんだが(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.06.22 11:59:44
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