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【タタールのくびき】 「世界史用語解説 授業と学習のヒントappendix list」より (alex99注) ロシアには ●タタール(モンゴル)のくびき ●ツァーリの圧政 ●共産主義政府の圧政 ●プーチンの圧政とウクライナ侵略 と、良いイメージは皆無である その意味で、あらためて、ロシアの歴史の根源ともいえる 「タタールのくびき」について調べてみることにした まずは本文を読んでみよう 【タタールのくびき】 「世界史用語解説 授業と学習のヒントappendix list」より 13~15世紀、ロシアがバトゥの遠征以来、モンゴル国家であるキプチャク=ハン国の支配を受けたこと。 1480年、モスクワ大公国イヴァン3世が自立して解放したとされている。 モンゴル帝国のバトゥの西方遠征によって、1240年にキエフ公国が滅ぼされ、モンゴル人のキプチャク=ハン国が南ロシアに建国されてた。 それ以来、1480年に独立を回復するまでの約240年続いた、ロシアがモンゴル人の支配を受けていた時代のことをいう。 「くびき」の意味 ================ 「くびき(軛)」とは牛や馬を御する時にその首に付ける道具。 つまりロシアがモンゴルに押さえつけられていた時代、という意味となる。 しかしその支配は、完全に服従してしまったわけではなく、 ヴォルガ地方のサライにいるキプチャク=ハン国のハンへの貢納を条件に、 ロシア国家としては存続できていた。→ キプチャク=ハン国の項を参照。 ノヴゴロド公アレクサンドル=ネフスキーは西方からのスウェーデンやドイツ騎士団の侵入に対しては戦い、撃退しているが、キプチャク=ハン国にはみずから進んで臣従し、1252年にはモンゴルの力でロシア正教の主教座のあるウラディミール大公となった。その後、ロシア諸侯はキプチャク=ハン国に対して貢納するという形で服属を続けたが、1480年、モスクワ大公国のイヴァン3世がキプチャク=ハン国から自立、つまり貢納義務を拒否し、その軍を撃退したことによって「タタールのくびき」は終わりを告げる。 タタールの意味 =================== タタールという言葉には注意を要する。 (引用)「タタールという言葉には、いつもある独特な響きがつきまとう。 13世紀のヨーロッパ人たちの祖先は、”地獄から来れる者ども”(エクス・タルタロ)というラテン語を思わせる「タルタル」をモンゴル人を指す語として用いた。 一説には、タルタルがモンゴルの一部族だった韃靼(タタール)の音とよく似ていたからだという。」 注意しなければならないのは、現在ヴォルガ川中流で生活するタタール人ではないことである。 現在のタタール人は ========== ヴォルガ中流域の先住民であるフィンランド人やハンガリー人の祖先たちと、後から移動してきたトルコ系民族(ブルガール人)の混血から生まれた民族で、イスラーム教化し、13世紀にモンゴルのキプチャク=ハン国に服属したが文化的にはモンゴル人を圧倒し、モンゴル人を同化させた。その後、征服者モンゴルを意味するタタールを民族名として自称するようになった。 <山内昌之『ラディカル・ヒストリー』1991 中公新書 p.48 などによる> モンゴル人の支配 =============== 西方遠征から引き揚げる途中のバトゥは、1242年にヴォルガ川の下流サライを首都として国家を建設した。これがキプチャク=ハン国で、ロシア各地の諸侯はサライのハンに臣従する形となった。ハンはロシア諸侯に対し、間接統治にあたり、行政は諸侯に任せられ、ただ諸種の税を納めなければならなかった。またギリシア正教の信仰を否定されることもなかった。このようにキプチャク=ハン国によるロシア支配はゆるやかなものであったが、ロシア国家の独立は認められなかったので、ロシア人は「タタールのくびき」といって嘆いたわけである。 「タタールのくびき」の実態 ============== ロシア史では、モンゴル人に支配された時代を「タタールのくびき」といい、ロシア史においては、野蛮なモンゴルの圧政の下に高いキリスト教信仰を持つロシア民族が苦しんでいた時代、ととらえられ、またその後のロシアの後進性であるツァーリズムの専制君主政や封建的な社会のしくみをモンゴル支配時代の影響とする見方が根強い。 しかし、そのような見方は事実からは離れている。 まずロシアを支配したキプチャク=ハン国は純粋なモンゴル人の国家ではなく、 モンゴル人とトルコ系民族が融合した、モンゴル=トルコ人とも言われる人々であり、 文化的にはイスラーム化したトルコ文化であった。 キプチャク=ハン国が衰退して、モスクワ公国が自立してからも、同じ時期のキプチャク=ハン国の後身であるカザン=ハン国やクリム=ハン国の方が高い文化水準にあった。 文化的に高いロシアが野蛮なモンゴルに支配された、というのは誤りである。 また、キプチャク=ハン国のロシア諸侯に対する支配も間接統治に止まり、ギリシア正教の信仰も租税を負担する限り、認められていたので、 「圧政」の下に苦しんでいた、というのも実態ではない。 <山内昌之『ラディカル・ヒストリー』1991 中公新書 p.36-50 などによる> Episode ドミトリー=ドンスコイの勝利 キプチャク=ハン国のロシア支配は間接的なものであったが、ロシア人の有力な地方政権が互いに争った際、ハンの力が利用された。14世紀後半にトヴェーリ公ミハイルとモスクワ公ドミトリーが対立すると、トヴェーリ公はハンからウラディミル大公の地位を安堵してもらおうとした。モスクワ公ドミトリーがミハイルを攻めて大公の地位を実力で取り戻すと、キプチャク=ハン国のママイ=ハンは大軍を派遣してモスクワ公を懲罰しようとした。しかしドミトリーは他のロシア諸侯と連合し、1380年、ドン川の河畔クリコヴォの戦いでキプチャク=ハン国軍を破った。この勝利でドミトリーは、「ドン川の」という意味を込めてドミトリー=ドンスコイと言われるようになった。この勝利はロシア側の最初の勝利であったので、モスクワ公の権威は一挙に高まった。 しかし、「タタールのくびき」がすぐ終わったわけではなく、その後もモスクワはたびたびキプチャク=ハン国軍に襲撃され、その支配は1480年までなおも百年続くのだった。
―――― alex99の感想と意見 ―――― 私は「権威に盲従する農奴」というロシア人の今に至る国民性は 「タタールのくびき」という歴史に由来するものだと信じていたのだが この記事を読むと、タタールの支配は間接的であり宗教的自由もあり朝貢さえすればよい、と言うのが実態と知った 私は合計数年間、東西冷戦時代に、旧共産主義国に 出張・滞在した経験があるが、今思えば、これは貴重な体験だったと思う ただし、旧ソ連での滞在経験はない こういう盲従の性癖は民主主義の敵である 民主主義という制度は、民衆・国民の言って以上の知性及び合理的な判断力を前提としている いまだに民衆がその知性・判断力を書いているロシアは 今回のウクライナ侵略戦争において しかるべく敗北し崩壊し ロシア国民も愚かな現代の奴隷として生きてほしい(笑) 調べてみると ロシア人だとばかり信じていた偉大な芸術家たちの多くが ウクライナ人である お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.01.28 13:30:33
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