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「五綿八社」の興亡(2)~ (6) ======================================= 利他の心尊んだ近江商人 「五綿八社」の興亡(2) 軌跡 2017年9月12日 「五綿八社」のルーツの一つ、近江商人は「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」で有名だ。現代の「企業の社会的責任」(CSR)を先取りしていたともいわれる。 日本各地を行商して回った近江商人(滋賀大学経済学部附属史料館所蔵) だが滋賀大学の宇佐美英機・特別招聘教授は「江戸時代に『三方よし』という言葉はなく、後世の解釈だ」と話す。広まったのは昭和の末期以降という。 アパレルの小泉(大阪市)は「五綿八社」ではないが、近江商人の伝統を受け継ぐ老舗だ。武士だった小泉太兵衛が刀を捨て、麻布の行商を始めたのが1716年。昨年、創業300周年を迎えた。自らも滋賀県出身の植本勇会長は「高校を卒業して入社した頃には『三方よし』を聞かなかった」と振り返る。 ただ言葉はなくても、顧客や地域社会を大切にする理念は近江商人に共通していたとみる。近江商人は旅先で商いをして各地に拠点を設ける。自らの利益しか考えない姿勢では地域に溶け込めない。諦めて帰郷すれば「失敗したとみられる」(植本氏)。不退転の決意が必要だった。 「琵琶湖のアユは外に出て大きくなる」。滋賀県にはこんな言い伝えがある。琵琶湖では小さいが、川を上ると大きくなるアユを、他国での行商で鍛えられて成長する近江商人に重ね合わせている。 伊藤忠商事、丸紅の創業者である初代伊藤忠兵衛も「商売は菩薩(ぼさつ)の業」と語った。「商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」と続けている。 菩薩は悟りを開く一歩手前にいるが、自分のためだけに修行するのではなく、自利と利他をともに求める。初代は浄土真宗の熱心な信者でもあったという。信仰心に裏打ちされた理念が今も伝わる。 ====================== 「意見の下剋上」伝統脈々 「五綿八社」の興亡(3) 軌跡 2017年9月13日 17:00 従業員の士気を鼓舞した初代伊藤忠兵衛 伊藤忠商事と丸紅の創業者、初代伊藤忠兵衛は1859年、広島や下関を経由して長崎に着く。初めて外国人や商館、軍艦を見て驚き、海外に目を開く。貿易の重要性を痛感する。 なぜ江戸ではなく、九州に向かったのか。初代忠兵衛は近江商人としては後発だった。創業家の伊藤豊氏は「江戸は近江商人の先発組に商圏を押さえられていたので、九州に向かったのだろう」とみる。 長崎行きが、「五綿八社」や総合商社としてグローバルに事業展開する伊藤忠商事、丸紅の原点になった。初代忠兵衛が先発組だったら、両社の歴史は変わっていたかもしれない。 初代は従業員の意欲をかき立てることに熱心で「立身出世の道と、そのための自助努力を奉公人に説いた」(滋賀大学の宇佐美英機・特別招聘教授)。 若手の意見を募ろうと社内会議も盛んに開いた。二代忠兵衛の追想によれば「意見の下克上」を大いに奨励した。会議に備えて、皆必死に勉強したという。 経営の近代化を推進した二代伊藤忠兵衛 「『日本のため』などという狭い視野でものを考えていいのですか」。1974年、伊藤忠商事の新入社員が副社長の発言を聞いて批判した。この新人は現社長の岡藤正広氏。「意見の下克上」の伝統は引き継がれているようだ。 初代忠兵衛はまた、月に6日も店員とすき焼き鍋を囲んだという。今風に言えば「従業員満足度」を高めようとしたのだろう。商人から近代的な経営者に変わろうとしていた。 二代忠兵衛はさらに近代化を推進、欧州で仕入れた織物を韓国で売るなど三国間貿易を始めた。1914年には個人経営の組織を改め、伊藤忠合名会社を設立している。 ================ 紡績業と団結 英国に対抗 「五綿八社」の興亡(4) 軌跡 2017年9月14日 17:00 1882年設立の大阪紡績(現東洋紡)をはじめとする紡績会社は当初、原料に国産綿花の利用を考えていたが、やがて輸入綿花に切り替えていく。これで「五綿八社」などの商社に大きな商機が生まれた。 鐘淵紡績の兵庫工場(明治後期) 日本綿花(現双日)は92年、関西の紡績会社を中心に設立されインド、エジプト、中国からの綿花輸入を始める。三井物産の綿花部門が独立したのが東洋棉花(現豊田通商)だ。商社が様々な国から買い付けた綿花を混ぜて使うことで、紡績会社は「相場変動リスクを小さくできた」(宮本又郎・大阪大学名誉教授)。 五綿などの商社は紡績会社がつくる綿糸、綿布など製品の輸出も担った。 1910年代に工業生産に占める繊維の割合は5割に達した。神戸大大学院の平野恭平准教授によると、33年に日本は綿布輸出で英国を抜いて世界一になり、貿易摩擦も生じた。 英国の植民地だったインドは同年、製品価格の75%という高率関税をかけて日本の綿製品を締め出そうとした。日本の紡績会社と繊維商社は業界ぐるみで団結し、インド綿花の買い付け停止で対抗する構えを見せる。インドは翌年、日本の輸出量制限を条件に関税を50%に下げた。 船場八社の一社、八木商店(現ヤギ)も鐘淵紡績(現クラシエホールディングス)の製品を積極的に扱い、ともに繁栄した。 日本在来の綿糸は繊維がよくよれておらず、膨れていた。このためしっかりよっていた鐘紡の糸は「やせている」と市場の評価が低かった。八木の創業者、八木與三郎は「鐘紡の糸はよく紡いである」との糸商人の評価を利用するよう、鐘紡の経営者である武藤山治に進言し、信頼関係を深める。メーカーと商社が「売り手よし、買い手よし」の関係だった。 ================ 財閥解体、戦後貿易リード 「五綿八社」の興亡(5) 軌跡 2017年9月19日 17:00 紡績会社とともに日本の産業革命を推進した関西の繊維商社「五綿八社」は、第2次世界大戦後に再び脚光を浴びる。戦後復興期も繊維が日本の主要産業であったうえ、GHQ(連合国軍総司令部)の政策で三井物産、三菱商事が財閥解体の対象となったためだ。 三菱商事社史資料編によると、GHQの指令による同社の解散で、163社の"新会社"ができた。 「関西五綿」の例では、1941年に伊藤忠商事と丸紅商店などが合併。戦後の49年には「過度経済力集中排除法」によって伊藤忠商事や丸紅などに分かれたが、三井物産や三菱商事のように細かく分割されることはなかった。 専修大学の田中隆之教授によると、「総合商社」という言葉が使われるようになったのは戦後だが、三井、三菱は戦前から総合商社化していた。五綿にとって「総合化」の先行走者だった両社が、一時的に脱落した格好だ。 公正取引委員会事務局が編集した資料を見ると、53年9月期決算で伊藤忠や丸紅の商品取扱高は、「大合同」で再結集を終える前の旧三井物産系や旧三菱商事系の商社を上回っている。 「五綿八社」はどんな響きをもつ言葉だったのか。アパレルの小泉(大阪市)の植本勇会長は「今で言うブランド」と話す。有力企業群を指すだけでなく、信用力の高さも感じさせる言葉だったようだ。 50年に朝鮮戦争が勃発すると、五綿八社は特需景気で一段と利益を増やした。繊維製品の輸出を伸ばしたほか、「新三品」と呼ばれたゴム、皮革、油脂の取り扱いに力を入れた。 しかし特需の反動が、五綿八社の経営に大きな打撃をもたらす。繊維輸出のキャンセルが相次ぎ、新三品も大幅に値下がりした。 ================ 船場の再編、独立守るヤギ 「五綿八社」の興亡(6) 軌跡 2017年9月20日 17:00 朝鮮戦争特需の反動不況後、関西の繊維商社「五綿八社」はどうなったか。 八木商店(現ヤギ)が1913年に改築した赤レンガ造りの本店 「関西五綿」は持ちこたえたが、宮本又郎・大阪大学名誉教授によると「船場八社」のうち岩田商事は破綻。丸永と田附は、関西五綿の日綿実業(日本綿花から社名変更、現双日)に合併された。竹村綿業は帝人のグループ企業と合併。又一は金商と合併後、三菱商事の系列に。竹中は住友商事の系列に入った。 船場八社を襲った淘汰再編の嵐に耐え、船場に残って経営の独立性を保ったのが八木商店(現ヤギ)だ。 京都出身の八木與三郎が1893年、大阪市に綿糸商として創業し、初代社長となった。鐘淵紡績(現クラシエホールディングス)の武藤山治に敬意を抱いて交流を続け、鐘紡の製品取り扱いに力を入れた。 創業20周年の1913年に近代的企業への脱皮を決意し、本店を赤レンガ造りの洋館に改築。従業員の呼び方も江戸時代からの「……どん」をやめ、「君」付けに改めている。進取の精神が旺盛だった。 社是は「終始一誠意」。伊藤忠商事、丸紅の創業者が「嘘をつくな」と戒めたのと通じる。 なぜヤギは生き残れたのか。八木隆夫社長は「創業者に慎重さがあり、会社が苦しいときには私財をなげうってきた。会社も真面目な遺伝子を受け継いでいる」と言う。朝鮮特需の反動による痛手も、他社よりは小さかったようだ。 八木社長は会社の特徴を「アメーバのように環境変化に敏感」と話す。例えば海外拠点。進出を決めるのも速いが、危ないと思ったら素早く撤退する。 二代目社長の杉道助は吉田松陰の実兄の孫で、大阪商工会議所の会頭を務めた。戦後復興、貿易振興に力を尽くし「五代友厚の再来」ともいわれている。
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最終更新日
2024.11.18 19:22:45
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