私の代理人としてのトニオ・クレーゲル
愛読書(と言っても昔一度読んだだけだが)のひとつに、トニオ・クレーゲルをあげた。ついでに、書いてみたいことがある。トニオ・クレーゲルの主題は、「市民的気質」と「芸術家的気質」というものだと思う。主人公のトニオ・クレーゲルは、父親が商人である実務的な市民的気質のドイツ人、母親は対照的な芸術家気質の情熱的なイタリア人で、彼は母親の気質を受け継いでいる。トニオは、クラスメートの金髪の美少女に恋をするが、彼女はあきらかに市民的気質で、トニオは彼女に遠くから憧れを抱くものの、なかなか近づけない。この時の彼は芸術家特有の鬱屈した孤独感が強く、くったくがなく深く考えること無く行動できる彼女に、劣等感を感じる。その彼女は、同じ平凡な美少年と恋仲であって、ますますトニオは距離を感じて悩む。私自身も、青春時代には自分を「芸術気質」だと思っていた。これは錯覚だったのだが(笑)、青春時代には、だれでも自分を「芸術気質」だと思うものかも知れない。実は、私も一度、「市民的気質」の女性に激しい恋をしたことがある。 ~~~~~~~~~それまで私は、外国出張をくり返してビジネスに専念していたので?、つきあう相手もいろんな理由で外国人の女性が多かったし、出会っては別れるを、心ならずもくりかえしていたし、自分でもアウトサイダーを気取っていて、私は農耕民族の日本人タイプではなく、遊牧民族・騎馬民族タイプの放浪の民だと思い込もうとしていた。そのころ、彼女と出会ったのだが、彼女は読書が好きとか、深く考える知的なタイプではなく、本当に俗で幼稚な、(失礼!)平凡な性格の女性だった。(こんなに悪口?を言っていいのかな?)ただ、姉妹だけで育った女らしい、大事に育てられたお嬢さんという雰囲気があった。それまでの私は、どちらかというと、年上の知的でキツメの性格の女性に惹かれていた。ところが、そんな私が、その彼女を知って、どうしたことか、深い劣等感を感じた。彼女が人間としての王道を行っているように感じたのだ。それと同時に、この平凡な美女と、平凡な幸福な家庭を持って、平凡な普通の生活に途中乗車して、定住してしまいたいという、強い欲求を感じた。今までのすさんだ?生活はもうやめて、平凡な幸せにこっそりもぐりこんで、もう他人に、「変わり者」など言わせない生活をしてみたかった。海外でビッグ・プロジェクトを受注しても、それは即、出世にはつながらない。むしろその成績を上司に横取りされているし、出世へは遠回りになる、そろそろ内地で上級管理者!への道を着々と進むべきだ。そのためにも早く結婚をしなければ。そのためにも、この女性となら平凡ながら堅実な生活を営めるだろう。そうして、暖かく愛に満ちた生活に埋没したかった。どうせ文学や哲学を語り合うことはないだろうけれど、日々の愚にも付かない些事を話題にしているのも楽しいではないか?休日には、エプロンを掛けた彼女が、いそいそと美味しい食事を作って「さあ!どうぞ」と声を掛けてくれる。まるで、小坂明子の「あなた」の男性版のような夢だが・・・。そう思うとたまらなく彼女の愛が欲しくなった。半年ぐらいその熱は続いたと思う。彼女とデートもした。しかし、彼女が私にそれほど熱意を持っていないことはよくわかっていた。住む世界が違うというか、興味が全く共通していないのだ。だから話題も弾まない。いわゆる、きまずい「死の沈黙」がつづくこともあった。おまけに彼女は、私を貧乏な家庭の出身だと思いこんでいる。「やっぱり、ある程度、お互いの環境が違うと難しいわね・・・」そういう風にえらそうに言う彼女は、確かにミッションスクール(共学)出身だが、そこの学生はみな、お金持ちのお坊ちゃんお嬢様であるわけでもない(はずだ)。私の出身大学は、昔はバンカラな校風だったが、彼女はその大学の学生は昔風の苦学生ばかりだと思いこんでいるのだ。おいおい!どんな社会認識なんだ?これひとつ見ても、彼女の愚鈍さが(失礼)わかるというものだ。(プンプン!)第一、授業料はこちらの方が多少だが高くて、授業料値上げの大ストライキまであったんだから・・・。(こんなことを威張ることもないな)そんな風で結局ハッキリ振られたわけだが、その時の苦しみはひどかった。しばらく、そのトラウマが残った。しかし、後になって考えてみたら、実は私は、彼女という特定の女性自体に、本当の恋愛をしていたわけでもなかった。恋に恋していた(fallin’in love with love)、というか、むやみに、「普通の!」恋に、ひたりたかった。彼女には一種の甘い家庭生活や恋愛ごっこのような匂いがあって、その当時、いろんな意味で、冒険的なアウトサイダー的な道を長らく歩いていて、精神的に疲れを感じだしていた私に取って、彼女の存在は、とつじょ、「正常な市井人にもどらなければ!」と、私にも残っていたバランス感覚を強烈に刺激したのだ。一種のバランス感覚恋愛なのだ。(初耳の人もいるかも知れない)もし彼女と結婚していたら、どうせ基本的な部分で全く会わないのだから、私は妻をかえり見ない典型的な日本の夫となって、「飯! 風呂!」と言いながら、新聞を読んでいたかも知れない。(新聞は、今も読んでいるが)彼女は豚のように太って、子どもをコロコロたくさん産んだかも知れない。(コロコロ子どもを産んでいる家庭には申し訳ない)その子どもは「お父ちゃん」と、みだりに私にまとわりついて、私はその子供たちを蹴飛ばしながら、テレビのお笑い番組に見入っているかも知れない。(どうも、私は悪い状況しか想像したがらないようだ)だから、私は、私自身を、芸術家の孤独を知る「日本のトニオ・クレーゲル」だと思っている。芸術には全く才能のないトニオ・クレーゲルである。