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カテゴリ:雑談
今日は花火のこぼれ話です。 東日本大震災後、色々イベントなどの自粛という話が良く出ていましたが、最近は節電一色にかわりつつありますね。 当面原発の全力フル稼働は難しそうですし、かといって代わりになる発電所も発電量は頭打ちですから、当分電気を気にしながらと言う感じになりそうですね・・・。 猛暑も続いていますから、過度な節電、クーラーなどの使用控えは体調を崩す元になりますから、適度な冷房は必要です。水分の摂取と併せて気をつけてくださいね。 さて、夏の風物詩と言えば花火、東京では隅田川の花火大会など、大きな打ち上げ花火が有名です。 今年は震災の影響で大会自粛するのではと心配しましたが、他の大会はともかく、隅田川の花火大会は例年より1ヶ月遅れで実施されるそうです。 隅田川で川開き、今でいうところの花火大会が始まったのは江戸時代、享保18(1733)年八代将軍徳川吉宗の時代です(ちなみに当時は浅草川と呼ばれる川でした。そして隅田川は下総国と武蔵国の境、今の江戸川あたりを流れる川でした。何度かの川筋変更の結果、浅草川の位置に隅田川が来たのは昭和40(1965)年の事です。さらに余談ですが浅草川の治水は、かの伊奈忠順がおこなっています)。 川開き(花火大会)が行われるようになった理由は、享保の大飢饉の死者を弔う鎮魂祭だったと言われています。しかしこの年以降も毎年花火大会は実施されるようになり、鎮魂祭というよりは、経済刺激策の一環として位置づけられていくことになります。 今の花火大会の際と重なりますが、開催場所には大勢の人が集まり様々な出店が出て賑わうことになります。花火大会はいわばお祭りですから、日頃の鬱憤を発散させられる上に、ここで落とされるお金は経済成長が頭打ちだった江戸の経済を活性化させる貴重な一大消費イベントでした。 当時の花火一発の価格は一両で、江戸の御家人(徳川将軍家の直参家臣団の内、将軍に謁見できない低い身分の者)の最低賃金が年三両一分でしたから(いわゆるサンピン)、花火四発で、御家人の年収を吹っ飛ばす豪奢なものでした。見目美しいだけではなくこれほど盛大な浪費は類を見ないものですから、話題性も十分、これを見ようと江戸市民が詰めかけたのも頷けます。 ではなぜ幕府が、高価な花火を製造し川開きを催しを支援し続けたかですが、それは現在の東北や北陸、山間部の農業生産力の弱い諸地域の経済振興を意図したものだったからです。 江戸中期、各藩は度重なる飢饉、農地開発の限界から生産力の頭打ちによって、財政難に陥っていました。特に元々米の生産量が小さい東北諸藩の窮乏は激しく、農民の逃亡が頻発、さらなる米の生産力の低下、財政の悪化という悪循環に陥っていました。盛岡藩(南部家10万石)では、参勤交代で江戸に向かう途中、資金が尽きて宿場で足止めになるという事態も起きています。 一般的に幕藩体制は「小さな政府」の寄せ集めで、幕府は諸藩の謀反に対しては厳しく目を光らせたものの、内政には無関心(正確に言えば無関心だったのではなく無干渉主義だったのですが)、各藩の窮状にも知らんぷりというイメージがありますが、幕府としては諸藩の財政が破綻することを、無関心で眺めていたわけではありません。いざとい時の軍役の義務を果たせなくなっても困ります。 そのため諸藩の内政不干渉を維持しつつ、東北諸藩の財政に注意を払った景気刺激策が考え出されました。それが花火です。 花火の材料は火薬です。そして火薬の原料である硝石は、日本では産出しない資源です。そのため戦国時代、鉄砲が普及すると、各大名は硝石の確保に血眼になります。 硝石鉱山を持たない日本でしたが、塩硝と呼ばれる合成硝石を作る技術は早くから発達していました(小田原の後北条氏にも塩硝の生産を奨励する書状が残っています)。 塩硝は、家屋の床下などで人間や家畜の排泄物や植物をバクテリアの作用で発酵させて硝酸カリウム化させたものです。効率よく塩硝を作るには、山間部の植物や降雪による気温が低下することが良いため、必然的に東北・北陸地方、山間部が効率の良い生産優良地となっていました。 江戸の花火需要の増加は、塩硝の生産地東北や北陸諸藩に現金収入をもたらし、藩と領民の財政と家計に好転をもたらしました。 もともと米や農作物の生産力の弱い寒冷地でしたから、寒さが安定した収入に貢献する塩硝の生産の意義は大きなものだったのです。 江戸の川開きが三ヶ月と制度化し、花火需要が増大すると、東北の農村でも米食が定着するようになります。塩硝販売により手にした現金で米を輸入できるようになったからです。 隅田川の花火大会が誕生した背景には、江戸の景気刺激と東北地域の経済振興という合理的な政策があったのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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