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カテゴリ:激動の20世紀史
ジョン・F・ケネディ大統領が戦争を決断した数時間後(時刻は10月27日20時頃と言われています)、ホワイトハウスから1台のリムジンがそっと出ていきました。同じ頃、ソ連大使館からも1台の車がでていきました。 2台の車が向かった先は、司法省もしくは国務省の一室だった、さらにはワシントン市内の公園だったとも言われていますが、正確にはわかっていません。 しかし乗っていた人物についてはハッキリわかっています。ロバート・F・ケネディ司法長官とアナトリー・F・ドブルイニン駐米ソ連大使でした。二人は人目を避けて面会しました。 両者が会見することになったのには、さながら小説のような事情があります。 開戦決定後、エクスコム(最高執行評議会)の会議室には、ジョン・F・ケネディ大統領、ロバート・F・ケネディ司法長官、ケネス・オドネル大統領補佐官、ロバート・S・マクナマラ国防長官、マクジョージ・バンディ国家安全保障担当大統領特別補佐官、ディーン・ラスク国務長官ら、軍人以外の主要メンバーが集まりました。 戦争と決まったから、後はやることがないと言うわけではありません。同盟国への連絡、国民への公表のタイミングや避難計画など、決めることは山積みでした。 淡々と打ち合わせが進む中、ロバートがふと疑問を口にしました。 「本当にフルシチョフは失脚したのだろうか? 我々は何か勘違いしていないか?」 その疑問は、メンバー全員が恐らく何度も考えたことだったでしょう。 「まってくれよボビィ(ロバート・ケネディの愛称)、U2が撃墜されたのは紛れもない事実だよ。それをどう説明する」 バンディがたしなめました。 「2つのスタンドプレーが重なった結果だとしたら? 周囲は顔を見合わせました。 50年後の今日から見れば、ロバートの推理は、かなり正確にソ連側の事情を言い当てていたのですが、証拠も根拠もありませんから、ただの希望的観測に過ぎません。 「ボビィ、ドブルイニンと会ってみるか? お前の考えの通りなら、ソ連も交渉の糸口を探しているはずだ」 そう声をかけたのは、大統領の兄でした。戦争を決断したものの、平和的な解決を諦めていなかったのです。 「僕が?」 兄の言葉にロバートは驚きました。彼は司法長官であって外交の権限はないのです。 「そうだ、お前だ」 ジャックからすれば、この状況で自分の意志を正確に理解し、ソ連と交渉することが出来る人間は、世界でただ1人、弟のロバートだけでした。当然の指名でした。 一瞬躊躇った後、ロバートは承知し、閣僚たちは交渉のための条件を大急ぎでまとめました。
・フルシチョフの第2の親書は無視し、第1の親書の内容を全面的に受け入れる。
条件について簡単に説明したいと思います。 最初の親書を受け入れて、2番目に来た親書を無視するという、アクロバットな方法をとりました。 これは第1の親書の内容(アメリカはキューバへの侵攻、カストロ政権転覆等の謀略をしない、安全を保障する代わりにソ連はミサイルを撤去する)に、アメリカは異論がなかったものの、2番目の親書の内容(キューバの安全保障のみならず、トルコのミサイル撤去が、キューバのミサイル撤去の条件とする)は、とうてい受け入れることが出来ないものだったからです。 もしソ連の「恫喝」に屈して、トルコからミサイル撤去を受け入れたら、アメリカは自国の安全のみを考えて、同盟国を平気で見捨てる国になってしまうからです。それはアメリカの国際的な地位の失墜を意味します。 西側諸国の盟主としての責任がある以上、フルシチョフの第2の親書を受け入れることは絶対に出来ないのです。 さらにいえば、もし要求に屈すれば、ソ連は味を占めて、同じ手をこれからも繰り返してくるかも知れません。それでは危機は何度も再発し、根本的な解決になりません。むしろ今後も核戦争の危機は続くことになってしまいます。 こんなことは今回が最初で最後にしなくてはならないのです。 しかし次の条件を見ると、半年後にトルコからミサイルを撤去するとあります。 ソ連の要求は拒絶するのに、ソ連の希望どおりの展開になってしまう。どういうこっちゃと思われるでしょう。 この辺に政治のややこしい駆け引き、建て前と本音がよく見て取れます。 フルシチョフの第2の親書は、アメリカにとって受け入れられません。しかし原則論にこだわって相手を追い詰めすぎると暴発するかも知れません。現にU2偵察機が撃墜されましたが、これは暴発の延長線上と言ってよいでしょう。 したがって表面的には、ソ連の要求は拒否しますが、裏ではフルシチョフに少し花を持たせて、危機を穏便に解決しようとしたのです。それが半年後(つまり、ほとぼりが冷めた後)に、トルコのミサイルを撤去するという条件だったのです。 裏話になりますが、アメリカがこうもあっさりと、トルコのミサイル撤去に同意したのは、ミサイルに重大な問題があったからです。 トルコに配備されていたのは、「PGM-19 ジュピター」 という中距離弾道ミサイル (IRBM) でしたが、初期に開発されたミサイルだったので、この時すでに時代遅れになっていました。 ジュピター・ミサイルは、後発のミサイルとくらべて維持コストも高く、安全性(発射台は露天式だったこともあり、落雷などに弱く、故障しやすいものでした)にも問題を抱えており、ケネディ大統領は、キューバ危機の9ヶ月前の1962年1月に、全て退役させて解体処分するよう命令を出していました。 しかし、一端配備された核ミサイルを、簡単に撤去してしまうことは同盟国トルコを不安にさせることになるため中々言い出せず、ミサイルを管理していた空軍(言うまでもなさそうですが、トルコのミサイル撤去反対派の筆頭はカーチス・ルメイ空軍大将でした)の反対もあって、調整に手間取っていたのです。 もちろんそういう事情はあって計画は停滞していたものの、遠からず撤去する事になるのは、アメリカ政府内の決定事項だったのですが、ソ連が撤去を要求してきたために、逆に拒絶して配備続行をしアピールしなければならない馬鹿馬鹿しい話になっていたのです(一説には、フルシチョフはその事を知っていたので、撤去を要求してもたいした問題にならないと安易に考えていたと言われています)。 そんな事情もあったので、ほとぼりが冷めた後にミサイルを撤去することは、従来の方針どおりと言うことになるため、アメリカ政府・軍部とも抵抗はありませんでした。 最後に10月29日朝までの期限については、解説は不要でしょうね。米東部時間9時に開戦についての大統領声明の発表が予定されていました(この時点で宣戦布告する予定はなかったという説もあります)。それを過ぎたらもう戦争になってしまうのです。 アメリカ側から会見を打診された時、アナトリー・F・ドブルイニン駐米ソ連大使は多忙の中にいました。 彼もまたU2撃墜のニュースに絶望していた人間の1人でした。もはや戦争は避けられないと、ソ連人以外の大使館員を全て退出させて、機密文書の焼却処分をおこなっていたのです。 ソ連本国からは、「トルコのミサイル撤去の条件を絶対条件として、なんとしても交渉の糸口をつかめ」という指示が来ていましたが、アメリカ国務省の反応はU2撃墜で硬化しており、とりつく島もない状態でした。 そんな中のホワイトハウスからの連絡でしたから、宣戦布告の文書を手渡されるかも知れないと、彼は緊張しました。 しかし会見相手が司法長官のロバート・ケネディと聞いて、ドブルイニンは落ち着きを取り戻しました。外交に権限がない司法長官が、宣戦布告の文書を手渡してくるわけがないからです。すぐに会見に応諾しました。 こうして戦争の足音が迫る中、最後の交渉がおこなわれようとしていました。 次回は、急展開する「キューバ危機」の最終章、ロバート・ケネディ、ドブルイニン会談について触れたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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