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カテゴリ:火山災害
一週間前に起きた御嶽山の噴火、本日(10月4日早朝)時点で犠牲になった方は47名、戦後日本の最大の火山災害が平成3(1991)年6月3日、長崎県雲仙普賢岳の火砕流による犠牲者43名(その後出た犠牲者1名を加えると44名)を追い抜き、戦後日本最大の火山災害となってしまいました。 しかもまだ行方不明の方は16名とも20名とも言われていますから、犠牲者の数がさらに増えることは確実です。 亡くなられた方々のご冥福を、遺族の方々にはお悔やみの言葉を、改めて申し上げたいと思います。 今回の噴火が、雲仙普賢岳の噴火と異なるのは、極めて小規模な噴火であったにもかかわらず、犠牲者が大きかったという点です。 「きわめて小さい」と言う表現に驚かれるかも知れませんが、噴石・火山弾の降ったエリアは4キロメートル以内に収まり(正確に言えば、噴石・火山弾のほとんどは、噴火口から500メートル以内に落ちています)、火山灰の被害も、麓の農作物などに被害を出ているものの、村が灰で覆われたりという事態には陥っていませんし、公共交通機関が止まったり高速道路が閉鎖されると言ったより大きな混乱は起きていません。 第1、噴火場所にほど近い剣が峰御嶽山荘(山小屋)や御嶽神社奥社も、灰だらけ穴だらけながら原形をとどめています。もう少し大きな噴火であれば、跡形もなく吹き飛んでいたことでしょう。 もし噴火のタイミングが、登山者の少ない平日、時間も数時間前後にずれていたら、犠牲者の方の数は相当数少なくなっていたと思います(さすがに1人も出ないとまでは言えませんが・・・)。 返す返すも、天気の良い土曜日のお昼頃という、最悪なタイミングで、登山者から見てほぼゼロ距離で噴火したことが、かくも大きな人的被害をもたらしたと言うことが無念でなりません。 噴火の状況を少し振り返ってみたいと思います。 噴火場所は御嶽山最高峰の剣が峰(3067メートル)の南西方向約500メートル付近で、しかも登山道に面した部分でした(玉滝口登山道の9合目から剣が峰へのルートにある「八丁だるみ」地点と、剣が峰から火山湖である二の池へ向かう途上の登山道に沿っています。ちなみに昭和54(1979)年の噴火場所より100メートルぐらい遠方です)。 昨日(10月3日)航空機からのレーダー観測で、約9つの火口が空いていることがわかりました。 火口の中で最も大きいのは18メートル位とのことで、火口の大きさから見ても、今回の噴火規模が小さいことがわかります(単純な比較は出来ませんが、富士山の宝永第1噴火口は、約1.3~1.6キロメートルです)。 11時52分に噴火が始まると、噴石や火山弾は、風向きに沿って、火口の北東方向つまり剣が峰の山頂方向を中心に降り注ぎました。 時刻はちょうどお昼時、みんな見晴らしの良い山頂付近で、のんびりとお昼を食べながら景色を眺めたり雑談に興じたりして、過ごしていたことでしょう。そこに噴石・火山弾の十字砲火が浴びせかけられてしまったのです。 噴石・火山弾の時速は200キロ以上、大きさは機関銃弾ぐらいのものから、軽トラ並みのものまで降り注いだことになります(ちなみに軽トラの重さは700~900キログラム位、これを大砲の砲弾に置き換えてみますと、日本海軍の戦艦金剛型、扶桑型、伊勢型が搭載した36センチ砲(イギリス製大砲がベースなので、口径は正確に言えば14インチ(35.6センチ)です)の砲弾重量が約900キログラムになりますから、この時登山者は、銃弾と艦砲射撃の豪雨の中に放り込まれたことになります)。 隠れるところのない山頂、しかも噴火によって吹き上げられた大量の火山灰に足を取られながら逃げた訳ですが(恐らく噴煙で視界もゼロに近い状態になったことでしょう)、相当困難を極めたのは想像に難くありません。 現在確認されている死者47名の内、噴石と火山弾による損傷死は46名という結果になってしまいました(その内亡くなった方の7割近い31名が、山頂での犠牲でした)。 噴火当時、山頂には150名とも250名とも言われる登山者がいたといわれていますが、生者と死者を分けたものは、まさに運だったんだなと考えさせられます。 さて現在も御嶽山は、火山灰と火山性ガス(硫化水素)の放出が続いており、捜索活動は困難な状況が続いてています。 しかも10月4日現在、台風18号の接近していますから、大雨となればラハール(火山性土石流)の発生する可能性もあり、一層捜索活動が難渋する可能性もあります。麓の村も被害が出る可能性もありますので、地元の皆様もご注意くださいね。 それではまた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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