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カテゴリ:歴史
猛暑が続いていますねぇ。まだ当分は暑くて寝苦しい夜が続くんだろうなと覚悟しています。 さそれでは深大寺のお話です。 まぁ、そう引っ張る話でもないと思いますので、次回で終わりの予定です。 今回は、深大寺城築城時の扇谷上杉家の状況について触れたいと思います。 この頃扇谷家は、領国の相模と武蔵の南を北条氏に奪われ、武蔵の北側を支配するだけの勢力に衰退していました。 さらに当主上杉朝興が世を去り(天文6(1537)年4月)、家中は混乱しています。 前回触れましたように、この頃北条氏綱は、上総への侵攻と成行き的に駿河での戦争という泥沼に陥っていましたが、これは扇谷家弱体で、北からの脅威はないと判断して、手を広げすぎた結果だと言えるでしょう。 慎重な氏綱らしくない甘い見通しでしたが、逆に言えば、それぐらい扇谷家の混乱と弱体化は大きかったと言えるかもしれません。 しかしもちろん、扇谷側が何もせずに傍観してくれる見通しなどありませんでした。 朝興は世を去る前、息子朝定と宿老たちを枕元に呼び寄せ、「葬儀は無用。氏綱の首を我が墓前に供えるが供養と心得よ」と遺言したと言われています(別の話でも似たような逸話はありますから、創作の可能性も高いかもと思います)。 新しく扇谷家の当主となった朝定は、まだ13歳で彼自身は主導力を発揮できませんでしたが、宿老たちは「朝興の遺言を履行する」という形で、家中を統制し、混乱を最小限に抑え、氏綱が油断しているこのタイミングで、反撃ののろしを上げることにしたのです。 それが、深大寺築城でした。 何故深大寺に城を築くことが、江戸城奪還になるかですが、お手元に関東の地図(戦国時代頃の地図があれば一番ですが、無いですよねぇ。ウチにもないですから。こういう話を書くときは、私は頭の中だ大雑把な地図を描きながらやっています・汗)を見ながらお付き合いいただくと分かりやすいかなと思います。 16世紀頃の南関東の主要街道ですが、東西の街道は、南に東海道、その北に江戸から府中を経て八王子を抜け甲斐へと続く街道(江戸時代に整備されて、甲州街道と呼ばれることになります)があります。 そして南北に縦断する街道に、3つの鎌倉街道がありました。 その内西回りの道(鎌倉街道上道と呼ばれていますが、『吾妻鏡』だとこのルートは下道になります。現在鎌倉街道の詳細の経路と変遷は、記録が無く分からなくなっています)は、鎌倉から藤沢、府中、所沢を抜け、そこから東に針路を変えると、扇谷上杉家の本拠地河越城(埼玉県川越市)に着きます。 東海道の小田原-藤沢-江戸の東西ラインを抑えた北条氏に対して、扇谷家は鎌倉街道の南北のラインを抑えており、その終点は府中になります。 府中は、江戸と八王子を結ぶ街道の十字路であるため、ここを扇谷家が確保し続けられるかは、戦略的に極めて重要となります。 府中を押さえている限り、扇谷家は東の江戸を突くことも、北条氏の支配下にある相模への侵攻も可能なのです。 事実、扇谷家が山内家と行った相模侵攻は、深大寺近辺に兵を集結させ、しかる後に府中から多摩川を渡っておこなっています。 深大寺は府中を管制下におくことが出来る位置にあります。 つまり、深大寺に城を築き、府中を扇谷家が確保し続けていることは、北条氏にとって、江戸城と小田原城の連絡線を脅かす、脇腹に匕首を突きつけられた存在になるのです。 深大寺城が、大軍を駐留させるスペースを多くとっていた事は、2月に行った際のブログにも書きましたが、その意図は防衛のためではなく、相模への侵攻・もしくは江戸城奪還のためと考えれば理由の説明ができます。 扇谷家にとって、深大寺城は、相模を北条氏の手から奪還し、起死回生を図るための「攻め」の城なのです。 このように戦略的な価値の高い深大寺滋養ですが、戦術的な価値も高い場所でもありました。 前も触れましたが、当事の多摩川北岸は湿地帯が多く、深大寺城はその湿地帯の中にある舌状台地にあり、西側からしか攻撃出来無い構造になっていました。 もしこの城を、大軍をもって城攻めをおこなったとしても、攻城側は兵力の優位を生かしづらいのです。 そして上総と駿河で軍勢の大半を拘束されている北条家にとって、この城を即座に攻め落とすための兵力を集めることは非常に難しい状態です。 北条氏がこの城を力攻めして戦力を消耗させれば、江戸城奪回のチャンスにもなるし、この城への攻撃を躊躇うなら、その間に深大寺城を拠点として、相模へ侵攻することも出来る。どちらに転んでも扇谷家が主導権を握り、北条氏を守勢に追いやることができるのです。 このように見ていくと、深大寺城築城が、なぜ北条氏打倒へとつながるかという理由が見えてきます。 もちろん、北条氏の勢力圏との競合地域にある深大寺への築城を、北条氏が黙って待ってくれるはずがありません。城が完成前に、攻撃してくる可能性も十分ありました。 深大寺城の特色である薬研堀の多用など、野戦築城方式になったのは、一刻も早く城を完成させたかったからであり、やはり家中の混乱を最小限に抑えたと言っても、当主の死で動揺している扇谷側としては、必要以上に築城に労力を、大きく割くことができなかった事情もあったかもしれません(後者の事情は、関東情勢に大きな帰趨を決める致命傷になってしまうことになります)。
着々と築城を進められる深大寺城ですが、その動きは早くも北条側に察知されることになります。 次回は、深大寺城の終焉について触れたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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