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2020.12.30
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カテゴリ:西暦535年の大噴火
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たぶんこれが年内最後の更新になるかと思います。明日は親鳥の顔を見に、自転車で実家に様子見してくる予定です。

南米の古代文明というと、前回触れた地上絵のあるナスカばかりが有名ですが、ペルー北部、モチェ川に面した地域にはモチェ文化が、ペルーからボリビアに至るアンデス山脈沿いには、ワリ文化と呼ばれる文化圏がありました。
そしてモチェ文化は、6世紀後半にナスカ文化が砂の中に消えていったのと時を同じくして、泥濘の中に消えていきました。
日本ではほとんど無名のモチェ文化ですが、歴史は古く、紀元前後ぐらいから始まり、6世紀ごろには安定した文化圏を築いていました。
​モチェは、メソアメリカのテオティワカン文明同様に、高度な金属細工(ただし鉄はありません)の加工技術を持っていたようで、遺跡からは黄金の副葬品が多く出土しています。​
​​神殿としてピラミッドを建設するなど、テオティワカンと似ている面も多くありますが(両文化に交流があったかは不明です)、一極集中型都市文明だったテオティワカンとは異なり、モチェの方は、いくつもの小都市国家が並列する形でした。そのため、戦争も多かったようです(モチェ内部の覇権争いの他に、近接するワリとの争いもあったようです)。​​
しかし一方で、農地や灌漑施設の建設には、複数の都市が協力して行っていたようで、全長110kmに達する運河も作られています。
日本の戦国時代の諸大名や、中世欧州諸国の諸侯のように、モチェの都市はそれぞれ自治を持ち、互いに協力し合いつつ、争うという感じだったようです。また、東のワリ、南のナスカとは交易していたようです。
繁栄していたモチェに影が差したのは、6世紀半ばから始まる異常気象でした。
前回のナスカのところでも触れましたが、ケルカヤ氷河の氷縞調査結果から、ペルー北部は、エルニーニョ現象とラニーニャ現象が交互に7世紀半ばまで発生続いていた形跡があります。
​エルニーニョ現象とは、東太平洋の赤道付近(ガラパゴス諸島付近からペルー沖にかけての海域)で海水温が上昇する現象です。​
​​この現象の何が問題なのかというと、海水温度上昇により、東太平洋を流れる湧昇流(冷たい海流)を押し上げて、気温が上昇させます(平均すると、だいたい1、2度ぐらいです。1997年から1998年にかけて発生した20世紀最大のエルニーニョ現象は、最大5度程度上昇しました)。​​
​気温の上昇は貿易風(東風)を阻害して弱めてしまうため、暖流が停滞します。そして東太平洋側の暖流と気温上昇で押し戻された湧昇流は、インドネシア付近の西太平洋付近に滞留して、こちらでは気温と海水温の低下を発生させます。こうして東西太平洋の温度差から、暴風雨や干ばつなどの異常気象が発生し、それが地球規模に影響を引き起こします。​
ラニーニャ現象はエルニーニョと逆に、東太平洋赤道付近の海水温が低下する現象です。両者は周期的に、数年に一度発生します。
エルニーニョ/ラニーニャとも、発生した時に、その影響を真っ先に受ける陸地は、太平洋に面した現在のペルーであり、当時のモチェでした。
エルニーニョの時はペルーは豪雨が多発し、ラニーニャの時は干ばつが襲う図式になります。
ケルカヤ氷河の氷縞調査結果と、考古学的な調査結果から、推測されるモチェの災厄は、以下のようなものです。
まず540年前後、大ラニーニャ現象が発生し、ナスカ同様モチェでも大干ばつが起きました。
太平洋に面して気候も温暖なモチェですが、この大干ばつで水は涸れ、農業生産は激減して飢餓が襲ったと考えられます。大ラニーニャは、10年以上続いたと推測されています。
そして556年ごろ、今度は大エルニーニョがモチェを襲いました。飢えと渇きに苦しんでいた人々は、大地を潤す大雨に驚喜したかもしれませんが、この雨は恵みの雨ではなく、死神の使いでした。
10年を超す大ラニーニャによって乾燥しきっていたモチェの山地、丘陵地帯は、この大雨を吸収することが出来ず、雨で地盤が崩壊して、農地や村々を飲み込む土石流をあちこちで発生させました。
この時期モチェでは、荒ぶる大地の神々を鎮めるため、生贄を捧げる儀式を頻繁かつ大規模に行っていたようです。
​6世紀半ばごろの儀式跡からは、40体以上の生贄が捧げられた跡が、いくつも発見されています(モチェでは、生贄を神殿の外壁にある泥の壁に塗り込める慣習がありました。貴族もしくは神官と思しき身分の高い者が1名と、その召使となる少年ほどの歳のものが1名、後は10名程度の護衛や従僕という構成が通常だったようです)。​
当時のモチェの総人口がどのぐらいあったかは不明ですが、1都市国家当たりの人口は7~8千人位と考えられています。40人の生贄とは、すなわち1都市の0.5%弱の人間という事です。
それがほぼ同一期間と思しき各都市の儀式跡から、複数発見されているという事は、どれだけ深刻な状況であったかを察することができます。
生贄にされた人々の「任務」は、神々のもとに赴き、人間の要望を伝えることですから、生贄人数の多さは、それだけ神々への陳情、願い事の多さの表れなのです。
しかし人々の願いは神々に届かず、大ラニーニャと大エルニーニョは、交互にモチェを襲い続けました。
土砂災害に多発により、モチェの肥沃な農地は海に押し流され、その後に来る大干ばつで、砂漠化が進行していきました。この図式は、ずっと前で触れたイエメンと似た図式だったと思われます。
元々複数の都市国家が乱立していたモチェは、異常気象が深刻になるにつれ、食糧確保を目的とした都市間の戦争が頻発していったと思われています。遺跡を見ると、都市を囲うように煉瓦と石で城壁が築かれるようになっていったからです。
戦争の痕跡は、墓所跡でも確認できます。
6世紀後半ごろと考えられている墓所からは、手足の指を切り落とされた上に、こん棒で頭を潰された者や、槍で心臓を貫かれた遺体が、無造作に折り重なるように埋められています。
​これらは戦争でとらえた捕虜を、虐殺した跡だと考えられています(ただし、一部は生贄にされた捕虜もいたようです。ホラー映画に出てきそうな話ですが、骸骨人形(体から皮膚と筋肉、内臓をすべて取り除き、骨と腱だけを残して、関節などを動かすことができる状態)も発見されています)。​
激しい戦争は、一層モチェの荒廃をまねいていきました。人口はさらに激減し、農業も産業も崩壊していったからです。もしかしたら疫病も発生していたかもしれません。
7世紀になるころには、すべての統治機構は崩壊状態になったようで、人々の大半は死に絶えたか、別の土地に逃れていったようで、モチェ文化は、泥濘の中に消えていきました。
​そして7世紀後半ごろになると、「空き地」になったモチェとナスカに、アンデス山脈にいたワリ人たちが進出してきました(ちなみに従来の学説では、モチェとナスカは、ワリの侵攻で滅ぼされたと考えられてきました)。​
​彼らワリ人たちも、異常気象で大打撃を受けていたと考えられていますが、前にモンゴル高原の情勢、柔然・アヴァールのところで触れましたように、異常気象は平地よりも山岳地帯の方がダメージが小さく済むので(大干ばつ時でも、山は雲がぶつかって雨が降るので、水に恵まれるためです)、ワリは壊滅的な打撃をかろうじて回避し、乗り切ったと考えられています。​
ワリ人たちは、ワリとモチェ、ナスカを結ぶ交易路を再建し、新しい政治機構を整備していきます。
​彼らの国家は10世紀ごろに衰退していきますが、その政治経済、文化的な遺産を継承して、南米に一大帝国を築くことになるのが、有名なインカ大国(1438~1533年)です。​

どうにか年内に間に合いました。
7年近くま続けてきたこのシリーズもそろそろ終わりの方に向かいます。





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Last updated  2020.12.30 20:52:54
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