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カテゴリ:西暦535年の大噴火
長ったらしく書いてきました西暦535年の大噴火の話ですが、単独で取り上げる最後の地域になります。 ・・・3月にPCがクラッシュしなかったら、4月にはアップできたんですけどね。文章は前の下書きと変わっていると思います。完全な復元はできないものですからねぇ。 さて、西暦535年の大噴火が起きたと考えられているインドネシアの話です。 噴火したのは、ジャワ島とスマトラ島の間、スンダ海峡にある巨大カルデラ、クラカタウと思われます。 2018年12月にも噴火を起こしたクラカタウは(この時は、430名を超す犠牲者を出しています)、535年以降も活発な火山活動を続けており、残念ながら科学的・考古学的に噴火を裏付ける決定的な証拠はありません。 そのため、アメリカの研究者などは、グリーンランドの火山が原因とする説を唱えていますし、535年の災害は彗星や小惑星の衝突説を唱える研究者もいます。 またそもそもそんな災害はなかったと考えている研究者も多くいます(2020年時点で、世界の歴史学会では「西暦535年に大噴火があった」ことは認められていません。起きたと考え始めているのは、火山学の研究者たちです)。 一方で、ブログで書き始めた際に触れましたように、中国の歴史書『南史』には、「西南有雷声二(南西の方角で、2回雷のような音がした)」と記載されています。 南朝梁の都である建康(今の南京)から、南西方向をたどるとクラカタウにたどり着きますから、『南史』の記述はクラカタウのカルデラ噴火時に発生した空振(衝撃波)の可能性が高いのではと私は考えています。 しかしこれはインドネシアから4500km以上離れた国の歴史書の話であり、インドネシアには535年の大噴火を裏付ける信頼性の高い史料は存在していませんから、否定的な意見や疑問視する声が上がるのは無理ありません。 ただし、現地インドネシアに噴火の痕跡がないわけでもありません。 6世紀当時、ジャワ島西部にはカラタン文明(中国の史書には、「呵羅単」と記されています)が栄えていました。 海のシルクロードとして中国とインドを結ぶ交易で栄えていましたが、6世紀半ばに忽然と消滅しています。 地質調査で、スマトラ島南部とジャワ島西部に6世紀頃と推定される大規模な火砕流跡が発見されたため、カラタン文明はクラカタウの噴火で滅んだのではという仮説が出てきています。 ただし、まだまだ証拠不足のため、仮説の一つにすぎません。これからの地質調査の進展を待つ必要があります。 一方、数少ない文献記録には、以下のような記述が残されています。 「バトゥワラ山(現在のプラサリ山の事。ジャワ島西部にある山です)からけた外れの轟音が聞こえてきた。 地面は大揺れし、あたりは真っ暗になり雷が響き稲妻が走った。 次いで猛烈な強風が吹いてきて、それと一緒に滝のような雨が降ってきた。大嵐が世の中を暗闇にしてしまった。 そしてバトゥワラ山から大洪水が押し寄せてきて、東のカムラ山(現在のグデ山。ジャワ島西部にある活火山です)の方に流れていった」 これは、1869年に発表された『古代の王たちの書(「古代の」というところを省いた表現もあるようです)』という著書の一説です。 上の描写を火山災害の記録として読んでみると、火山噴火によって、噴煙に覆われて太陽が見えなくなった様子、噴火によって誘発された暴風と津波が襲い掛かってくる光景が目に浮かびます。 さらに同書にはこんな記述もあります。 「水が引けた跡を見てみると、ジャワ島は二つに割れ、こうしてスマトラ島が生まれた」 実は地質学的に見ると、この言葉に正確なものです。 ジャワ島とスマトラ島が元は一つの島であったこと、それが火山噴火によって2つに分かれたのではないかと考えられるようになったのは、20世紀の後半のことなのです(ただし両島の分離がいつ起きたのかという年代は、まだ調査中で絞れていません)。 このように『古代の王たちの書』に出てくる記録を、火山噴火の記録として見てみると、科学的に大きな違和感は感じられません。 しかしこの『古代の王たちの書』は、歴史学会では歴史的史料とは見なされていません。研究者の多くは、著者ラングルガワルシタ3世(19世紀のジャワ島の知識人で、親蘭的なジャワ王に仕えた人物です)の文学作品と考えられるからです(理由は後述します)。 ラングルガワルシタ3世は、シュロの葉にジャワ文字で書かれた古記録を元に(これは現地の伝統的な記録方法です)、まとめて書いたとしており、21世紀初め時点では、彼が参照したシュロの葉の原本は、多くが現存しています。 しかし、このシュロの葉は、紙より劣化が早く、古記録の原本として確認できるのは、200~300年位前のものまでで、それより古い記録は、写しの写しばかりで原本が確認できません。 この手の写しは、写本の際に記述が削られたり変更されたりするのは世の常であり(そのため現存するものよりも古い写本が発見された際に、歴史学者が大喜びするのは、どこの国でも共通の話です)、1千年以上前に記述には、史料的な価値はないと考えられているためです。 そのあたりの問題は、この『古代の王たちの書』でも顕著に出ています。 古い時代になるほど、記録の疎と密の部分の記述差が顕著で、記述の多い年と無い年、詳しく書かれているところとないところの差が激しく、年表を作ろうとすると、あちこちが穴だらけになってしまうのです。 これが日本や中国、西洋ならば、個人の記録から公的な文書まで、数多く蓄積されており、西暦や年号の記載もされているものが多く、それらと比較しながら内容を精査することができますが(例えば私はこの話の日本のところを書いたとき、『日本書紀』をベースにしつつ、『古事記』や中国の『新・旧唐書』を眺めながら描きました)、『古代の王たちの書』は、比較検証できる文献史料が他にないため、本当にその出来事があったのか、その年に起きたのか等を確認することが出来ないのです。 一応、『古代の王たちの書』は、シャカ歴(インドの年号で、西暦78年が元年となります)を年代基準とされており、上記の出来事は、シャカ歴338年の出来事として記されています。そうなるとクラカタウ噴火は西暦416年の出来事という事になり、539年と119年もずれてしまいます。 そして西暦416年はどうだったかというと、グリーンランドや南極から採取された氷床コアや、木の年輪データには巨大な火山噴火があった痕跡は、一切ありません。 こうなると、西暦535年にクラカタウが巨大カルデラ噴火を引き起こしたと考えている研究者からも、この本は無視されてしまうことになります。 しかしこの本をフィクションと決めつけてしまうのは早計です。 同書を読んだ火山学者の多くから、「火山噴火の描写がよくかけている」と評価されています。 『古代の王たちの書』が書かれた1860年代、インドネシアの地質は全く研究されておらず、スンダ海峡にあるクラカタウが巨大カルデラ火山があることは知られていませんでした。 クラカタウの存在が初めて世に知れたのは、1883年に起きたクラカタウ噴火です(この時の噴火は、火砕流や噴石、津波により、インドネシアで約3万6千人が死亡する大惨事になりました。また地球の温度も平均0.6度下降し、異常気象による作物の不作などで、世界中で大きな被害がでて、暴動やなども世界規模で発生しました。日本でもこの噴火が引き金で起きたと考えられているのが秩父事件です)。 近代的な火山学自体がまだ黎明期であり、すべてが手探り状態で歩き始めていた時代です。その時代に、リアルな火山災害記録を創作出来たかは疑問であり、実際の災害記録があったと考えるのは自然な発想です。 ラングルガワルシタ3世は、火山大国ジャワの人ですから、西洋人に比べて火山の知識はあったと思われますが、噴火によって陸地が陥没して海になると言った知識はなかったと思われます。 それは『古代の王たちの書』初版本では、クラカタウが出て来ず(仮に目撃者がいたとしても、火山災害で死んでしまっているでしょうしね)、バトゥワラ山(プリサリ山)が噴火したというニュアンスで書かれていることからもうかがえます。 しかし1883年のクラカタウ噴火が、よほど印象に残ったのでしょう(現地で3万人以上の死者を出してますからね)。それがこの著書の史料的価値を一気に低下させる失策を、彼にさせてしまいます。 というのは、1889年に『古代の王たちの書』の第2版が出版されます。そちらでは6年前のクラカタウ噴火の詳細が取り入れられて噴火場所がスンダ海峡に変更され、ジャワ島とスマトラ島が分離した話は無くなり、被害描写が生々しく書き換えられています。 この余計な加筆行動は、彼の著書はを「歴史記録をまとめた本」ではなく、「小説」と認識させるに十分な行動でした。歴史を研究している立場から見れば、なんて馬鹿なことをしてくれたもんだという感じです。 しかし逆に言えば、脚色がおとなしかった初版版は、古記録を元に記述されたものだと言えるそうです。 6世紀に記録を残した人物は、ジャワ島の南部か中部あたりにいたため、クラカタウは見えず、バトゥワラ山の方角で噴火が起きているように見え、東のカムラ山(グデ山)へ向かって津波が進んでいくのを目撃した。 記録を読んだラングルガワルシタ3世は、それを素直に初版本に記録したと言えるのではと思います。 次のハードルは年代の問題です。 古記録と実際の噴火が119年ずれている点を、合理的に説明できればいいのですが、比較出来る文献史料が他になく、『古代の王たちの書』も文学作品とみなされて、真剣に研究する歴史学者は存在しないため、非常に厳しい状態です。 しかし年代の問題は、他の国でもよくあるケースです(日本でも、書状が書かれた年代が正確にわからず、論争になることがよくあります)。 研究の進展により、年代が変更されることもよくある事例です。特に記録の少ない古代では、100年以上年代が変わったこともあるので、119年の差が一気に縮まる可能性もあるかもしれません。 今後の研究が進展することを期待したいと思います。
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