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昨日、「人は見た目が9割」を読んだ勢いで、「国家の品格」も読みました。こちらは、講演を元にかかれているので、話し言葉調ですから、一気に読むのに向いている気がします。ただ、かかれている内容は、こっちの方が考えさせられるかなと。つまり、必ずしも賛成できる点ばかりではないのですが、理解できる。だから考えてしまう、といった感じかな。 「見た目が9割」もこの本も、人が人の話に納得するのは、論理的だからというだけではないということは共通しています。それが、表情や口調など「見た目」というのが、「人は見た目が9割」、論理ではなく情緒や形などの「品格」であるとするのがこちらです。 ただ、思うのですが、品位とか格というのはやはり表ににじみ出てくるもの。付け焼き刃は身に付かない。そう思うと、「見た目」をよくするためにも幅広い教養が必要・・・と取れると思うのですが。 ところで、この本で新渡戸稲造の「武士道」についてだいぶ述べられています。そのせいなのかわからないけれども、地元の本屋のベストセラーに新渡戸稲造の「武士道」が・・・(^^;) いまさら・・・と言いながらも、そもそもちゃんと読んだことがなかった。 まさにこれこそ、精神的ベースがないということなのでしょうか。 【本日の言葉】 p84 真のエリートには二つの条件があります。第一に、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役にも立たないような教養をたっぷりと身につけていること。そうした教養を背景として、庶民とは比較にもならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること。これが第一条件です。 第二条件は、「いざ」となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があることです。この真のエリートが、いま日本からいなくなってしまいました。 p92 民主主義にももちろんきちんとした論理は通っていますが、「国民が成熟した判断ができる」という大前提は永遠に満たされないこと、その本質たる自由と平等はその存在と正当性のために神を必要とすること、という致命的とも言える欠陥があります。 従って、自由、平等、民主主義などは抑制を加えない限り、暴走するものなのです。 (中略) 私が言いたいのは、論理や合理性が幾ら通っていても、それだけではうまく行かない、民主主義は成立するための前提すら満たされないし、自由と平等はその存在すらフィクションである、ということです。 p141 数学をやる上で美的感覚は最も重要です。偏差値よりも知能指数よりも、はるかに重要な資質です。 (一部、so-netブログへの書き込みと重複しています) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.02.15 23:47:56
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