読売・原辰徳監督、東海大相模高校。
原さんのいた東海大相模は強かった。「高校野球 忘れじのヒーロー」(ベースボール・マガジン社刊)によると、74年夏、75年春・夏、76年夏と計4回も甲子園に出場している。チームメイトでプロに行ったのは、津末英明(日ハム)、岡部憲章(日ハム)など。プロには行かなかったけど、小さな左腕エース村中秀人(現東海大甲府高監督)もいる。原さんの東海大相模在籍時、同じ神奈川県内の高校で野球をやっていた主な選手は桐蔭学園の長内(広島)、水上(ロッテ)、横浜高校の永川(ヤクルト)などがいる。原さんの名前を聞いて思い出すのは、1975年センバツの決勝、対高知高戦。準決勝を東海大相模が堀越(東京)を6-2、高知が3-2で報徳学園(兵庫)をそれぞれ破り、決勝進出。東海大相模が初回に3点を先制するも、追いつ追われつのシーソーゲームになり、5-5のまま延長戦に突入。10回表、東海大相模の攻撃は一挙5点を入れ、結局10-5で高知高に勝ち優勝した。私は、スコアブックをつけながらTVを見ていたので、10回表の5得点をよく憶えている。原選手はたしか三塁打を打ち、三塁に駆け込んだ。この時、守備についていた高知の三塁手は、こちらもスラッガーと呼ばれていた杉村繁選手。敵味方関係なく、三塁ベース上で二人で会話していた。この瞬間をなぜかよく憶えている。話は飛ぶけど、原さんが東海大時代に大学の日本代表選手に選ばれ、キューバ代表と後楽園球場(当時)で対戦したゲーム。私は友人とライトスタンドで観戦していた。トランペットや太鼓など鳴り物は一切禁止で、ボールがバットに当たる瞬間の音が鮮明に外野席まで聞こえてきた。選手たちの息遣いが聞こえてきそうで、また一球ごとに「ウォー」という観客の歓声もあり、静かな球場で野球を観るのはいいなぁ!と初めて教えられたのも、原さんが出場したゲームだった。