開拓者・野茂英雄と仰木彬氏
メジャーへのFAについて、やれ30億だ60億だ!とボクには想像もできないほどの大量の札束が、海を越えて日米間を飛び交っている。話題の主役は松坂であり、井川であり、岩村であり...。これだけ日本人選手が米国に渡り、メジャーが大量の札束を差し出す先駆けとなったのは、言わずと知れた元近鉄の野茂英雄(大阪・成城工高-新日鉄堺-近鉄-メジャー)の存在がある。野茂英雄についての思い出。近鉄ファンだったボクは、よく野茂が登板するゲームを観戦した。初めて野茂を見たのは、ルーキーイヤーである90年3月。ヤクルトとのオープン戦だった。場所は神宮、座った場所は外野の左中間付近。驚いたのは野茂が振りかぶって左足を上げた直後、身体をクルッと反転させて顔をこちらに向けたことだ。噂では聞いていたものの、マウンドに立つ投手と外野席にいるファンの目が合っているような感覚は相当に不思議だった。以降、野茂が投げるゲームを多く見た。決して見たくて見たわけではない、偶然にタイミングが合ったとしか言い様がない。本心を言えば、野茂以外の投手のほうがよかった。野茂が投げるゲームは、とにかく試合時間が長かった。奪三振を奪う瞬間を見るのは爽快だったけど、与四球も多く見ている側からすればダラけたゲームに見えてしまう。途中で居眠りしてしまうことも何度かあった。イニング数:1051.1、与四死球:607、奪三振:1204これ、近鉄在籍時5年間の野茂の全成績。5イニングに3個は四死球を供給し、完投すれば平均10個の三振を奪った計算になる。そんなに四死球は少なかったかな?三振と同じくらいの四死球があったように感じていた。そんな野茂、相手が清原和博(当時、西武)だと「力と力の対決」に燃え、「向かっていったろ」と真っ向勝負を挑んだ。投手が直球で勝負することを決め、打者も100%直球がくることをわかった上で対決する。結果、痛打を浴びることもしばしばあった。そんな野茂を見て、監督の仰木彬氏は他人事のように言ったという。「ここで変化球を投げてくれればいいのになぁ・・・と思うことはありますよ。しかし、お互いライバル意識が強いんでしょうな。野茂も清原も一歩も引かない。若さをぶつけ合いながら、勝ったり、負けたり・・・。皆さんが喜んでくれるなら、それもいいんじゃないでしょうか」(※)この発言、「天才は自由にやらせる」をモットーとする仰木さんの真骨頂といえるかもしれない。管理野球を標榜する監督からこういった言葉は決して出てこない。野茂をドラフトで引き当て、自由にさせる度量を持ちあわせた仰木さんも、やはり稀有の天才だったのだろう。(※)『勝者の思考法』(二宮清純著、PHP新書)より引用。 いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。