後藤武敏、松坂と羞恥心と
西武・後藤武敏(横浜高-法政大)が昨日のロッテ戦で2本塁打を放ち、お立ち台では涙を見せたそうだ。「1本目は昨日生まれた息子と嫁さんに、そして、2本目は5月の亡くなった母ちゃんのために・・・」 後藤の涙は、ここ数年の自らの成績を振り返れば、当然かもしれない。2003年のデビューした年こそ華々しい活躍だったけれど、その後がいただけない。高い能力をもった後藤だからこそ周囲の期待値は高まる。が、その割に一軍での活躍がほとんどなかったのだから。日刊ゲンダイによると、「いつトレードに出されるか、そういった不安がバネになった」と、後藤本人のコメントを紹介していた。後藤を応援したいからこそ、逆のことをボクは思った。いっそ新天地に行った方が、チャンスは広がるんじゃなかろうか~?過去にもそういった成功例もあるわけだし。ま、獲ってくれるくれる球団がなきゃ、始まらないのだけど・・・、このままの状態では寂しくもあるのだ。-----------------------------------------------------後藤武敏。法政大から鳴り物入りで西武に入団したのは’02の秋。東京六大学リーグで首位打者を2度、三冠王も1度獲得した好打者だった。でも後藤と言えば、2度も甲子園優勝した横浜高時代のほうがもっと有名だ。同級生に、松坂大輔(現・レッドソックス)がいた。そして、「松坂のキャッチャー」と呼ばれることを嫌うものの、「(亜細亜大時代の)木佐貫のキャッチャー」と呼ばれることに誇りを感じたという現・中日の小山良男もいたし、つい先頃、横浜から中日に移籍後初めてお立ち台に上がった小池正晃もいた。そういえば高校1年の夏。松坂や小山がアルプススタンドで応援する中、後藤は1年生ながら背番号「15」をつけてベンチ入りを果たしていたのだった。------------------------------------------------------余談だけど(あ、前にも書いたっけ?)後藤はユニット「羞恥心」にいろいろ関係がある。後藤にとって、野久保直樹はシニア時代の一年後輩。上地雄輔は横浜高時代の一年先輩で、2年生の秋に背番号「2」をもらって松坂とバッテリーを組んでいたものの、ヒジを故障して小山に正捕手を譲った経緯がある。 ↓ ここからは、後藤の話題から離れていきます・・・上地のブログ「神児遊助」にはこんな記述があった(6月26日)。「好きな野球を続けてたら山あり谷ありで背番号『2』をもらった。全国から集まる当時のうちのチームの中では、ズバ抜けて肩が強いワケでもなく、メチャクチャ打つワケでもなく、物凄く足が速いワケでもなく。『なんか持ってる』て言われて。『2』そのオイラの前に呼ばれた背番号『1』は松坂大輔だった。(中略)オイラが今まで人生で1番聞かれる質問。☆なんで野球やめたの?☆よく周りの人や記事には『怪我をしたから』て言われるけど、そんな格好いいもんじゃない。理由は、ただ好きだからってだけで6才から始めた野球をあの時、背番号『2』をもらった時「ホッ」とした自分に絶望した」続きは、ブログ「神児遊助」をどうぞ!------------------------------------------------横浜高で背番号「2」をもらったら、普通はホッとするだろうに。それで絶望するところが、ひょっとしたらこの人のスゴイところかもしれない 1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング