横浜の前身・大洋にあった開幕6連敗後の優勝
詳しいことは知らないけれど、横浜ベイスターズが開幕6連敗の泥沼状態の後、なんとか持ち直して健闘をしているらしい。横浜の「開幕6連敗」といえば、三原脩監督が率いた大洋時代の1960年、開幕6連敗から初優勝を飾った記録があり、チームにとって縁起のいいスタートだったということもできる(逆説的だけど)。----------------------------------------------------------今回の記事は、その1960年に開幕6連敗をしながら初優勝した大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)のこと。この年、三原脩氏(高松中-早稲田大)が大洋の監督に就任したことが、初優勝の原動力になったのは間違いない。三原氏と言えば、追われるように巨人監督を去り、関門海峡を越え九州の地に「西鉄ライオンズ王国」を作り上げた名将である。大洋の監督に就任する2年前の58年、巨人との日本シリーズで3連敗後4連勝して日本一になった逸話はあまりに有名。なのに突然、自身が作り上げた「王国・西鉄」を去り、三原は当時「セ・リーグのお荷物」と呼ばれていた大洋の監督に就任してしまう。でも三原には勝算があってこその大洋監督の就任だった。それは自身のもつ「知略」への自信、そしてエース・秋山登への期待。「開幕戦をエースで勝利しスタートダッシュを謀りたい」と考えていた三原は、当然の如く秋山を開幕投手に指名した。迎えた開幕当日(60年4月2日)、だれもが予想できないアクシデントが秋山を襲った。試合前、相手・中日ドラゴンズのノッカーを務めた牧野茂コーチ(当時)が、大洋の選手たちにからかわれ、ふざけ半分に大洋ベンチへ放り投げたバットがクルクル回転し、ベンチの最前列に腰かけていた秋山の頭部を直撃したのだ。ちょっと信じられない話だが、これは本当の話。からかった大洋の選手も牧野コーチも明治大の先輩・後輩の関係(ついでに頭部を直撃された秋山も明治大卒)。決して他意のない些細な出来事だったはずなのに、秋山は昏倒したまま救急車で病院に運ばれる憂き目にあう。診断結果は「一週間の安静」。この「牧野バット放り投げ事件」というか「秋山昏倒事件」が、60年の大洋開幕6連敗の真相だった。6連敗後は復帰した秋山のほか、島田源太郎、権藤正利、鈴木隆(以上、投手陣)や「天びん打法」の近藤和彦をはじめ、桑田武、近藤昭仁、土井淳ら野手陣の活躍と三原の「知略」を駆使して勝ち進み、ついに大洋はセ・リーグ初優勝を果たした。秋山ら数人の選手を除けば、一流でない「超二流」の選手たちの集団であり、そういった選手たちを効果的に使ったことが、三原の「知将」と呼ばれる所以でもあった。 (参考)「三原脩の昭和三十五年」(富永俊治著、洋泉社刊)---------------------------------------------------------------- 余談だけど。その後の日本シリーズでは大毎オリオンズ(パ・リーグ優勝)を4タテで破り、大洋が日本一に輝いた。当時、大毎の監督は西本幸雄氏。でも、この日本シリーズでスクイズ失敗事件が起き、それが発端となって西本は永田雅一オーナーと衝突。パ・リーグの優勝監督であるにも関わらず、シリーズ直後に大毎を去ることになった。三原脩、西本幸雄。この2人は後に「名将」と呼ばれる仰木彬氏に大いに影響を与えた人物であることに共通点がある。そして大洋が1960年以来次に優勝に導いた(98年)監督は権藤博氏は、仰木とともに88年「伝説の10・19」を演出した近鉄バファローズの監督・コーチの仲であり、三原・西本の時代から続く仰木・権藤の関係は、なにやら因縁めいたものを感じてしまうのだ。◇三原脩の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「75年前の日米野球のこと」 (2009.3.23) → こちらへ。◇西本幸雄の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「2人の正捕手、梨田昌孝と有田修三」 (2009.4.18) → こちらへ。◇西本幸雄&スクイズ失敗の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「思いだす、江夏の21球」 (2008.2.15) → こちらへ。◇仰木彬、権藤博の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「仰木彬×権藤博→阿波野秀幸」 (2009.2.28) → こちらへ。◇「10・19」の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「10・19とは何だったか? 」(2009.2.22) → こちらへ。1日1クリックお願いします