最後の都市対抗、日産敗退
今年限りで休部が決まっている日産は、都市対抗・準決勝でトヨタと対戦し、スコア0-1の僅差で惜敗した。この試合をもって日産、「最後の都市対抗」となった。創部は1959年(昭和34年)、都市対抗の出場回数29回、優勝は2回。そして日本選手権へは出場15回、優勝1回を誇る名門チームだったが、あとは秋の日本選手権を残すのみとなった。■wikipediaによると、日産野球部にはこんなエピソードがあったという。1999年(平成11年)、本社の社長に「コストカッター」ことカルロス・ゴーン氏が就任し、硬式野球部の存続が不安視されたが、氏は都市対抗野球での社員の応援に感銘を受け、硬式野球部を存続させることを決心したとされる。後にゴーン氏は「都市対抗野球こそが日本の企業文化の象徴だ」とも断言した。それなのに休部となったのは、昨今の経済情勢が影響した。--------------------------------------------------------(準決勝 第1試合)ト 000 000 100 =1日 000 000 000 =0(ト)中澤-佐竹、(日)石田-秋葉勝負を決めたのは7回表、9番・二葉祐貴(PL学園高)の一振りだった。この回先頭打者だった二葉、日産・石田祐介投手(淑徳高-東京国際大)の135kmの速球を叩き、レフトフェンスぎりぎりに本塁打を放ち、結果的にこの一打が決勝打となった。日産、安打「1」では勝ち目がなかった。その1安打が出た6回裏、二死三塁のチャンスを活かせなかったことが、最後まで悔やまれる。今日も1クリックお願いします