日本野球を救ったキャピー原田さん、死去
■戦後、野球を通じて日米親善に尽くした日系2世のキャピー原田さんが亡くなった。以下、朝日新聞より。原田さんは、連合国軍総司令部(GHQ)ではマッカーサー元帥のもとで占領政策を推進したマーカット少将の副官を務めた、1949年(昭和24年)には3Aのサンフランシスコ・シールズを招いて、戦後初の日米野球を実現させ、また日本にとって大リーグがまだ遠い存在だった時代から米球界に根ざし、貴重な窓口として日米の懸け橋となった。そして朝日新聞には、次の記事も掲載されていた。記憶に残る仕事の一つには「阪神甲子園球場の接収解除」を挙げた。戦前から日本野球の「聖地」として愛されたスタジアムは、米兵が寝泊まりする場所となっていた。焼け野原となった街と同様、荒れていた日本人の心を和らげるには野球が有効だと判断した原田さんが少将に進言し、1947年に実現させた。多くのファンが押し寄せた甲子園のスタンドを見て、「自分の政策は間違っていなかった」と確信したという。 (以上、朝日)キャピー原田さん。本名は原田恒男(日系2世)、子供の頃から優れたキャプテンシーを発揮し、仲間から「キャプテン」と呼ばれた。キャピーはキャプテンをもじった通称。■マーカット少将の副官として来日した原田さん、日本球界に数々の功績を残した。中でも最も記憶に残るのは「阪神甲子園球場の接収解除」が最も記憶に残ると話していたらしい。その言葉どおり、原田さんは戦後の中等学校野球選手権大会(後に高校野球)復活に尽力した。1946年(昭和21年)8月15日、当時GHQに接収されていた甲子園の使用が不可能だったため、西宮球場を代用して戦後初めて再開された。野球を復活させることが日本復興に役立つと考えた原田さんは開会式で、その思いをスピーチで表現した。「野球を通して平和を守ることほど、素晴らしいことはありませんライフル銃や玉より、バットやボールのほうが勝っているのです。一生懸命プレーすることによって、今日の平和を守っていくことが大事です」。心のこもったスピーチは選手やコーチのみならず、観客たちの心に響いたという。■だが大会中に「やっぱり甲子園の土を踏みたかった」という話を何度も聞き、日本の野球少年たちの甲子園への熱い思いを知った。そして大会を終え東京に戻ると、マーカット少将に甲子園に対する少年たちの思いを報告。それが効いて、翌47年(昭和22年)1月、甲子園のグラウンドとスタンドの接収が解除され、その年の春の選抜大会から使われるようになった。(参考)「プロ野球を救った男 キャピー原田」(市岡弘成、福永あみ共著、ソフトバンククリエイティブ、2009年刊)今日も1クリックお願いします