敗者の美学。「江夏の21球」の私的検証~14球目(下)
(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死満塁となり、一打逆転サヨナラのチャンスをつかんだ。一塁ランナーは平野光泰、二塁は吹石徳一、そして三塁には藤瀬史朗。打席には代打・佐々木恭介。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介 ■佐々木恭介の一打をあらためて見てみた。ビデオを見る限り三塁・三村敏之のグラブに打球が触れているようには見えないが、三村は後になって「打球がグラブに触れたか否か、その事実は墓場まで持っていく」と話していた。そして事実、何も語らないまま2009年11月3日、心不全で急逝した。いささか謎めいたシーンではあるが、ボクは後になって、このシーンについてあることを妄想するようになった。それは現・法政大監督の金光興二のこと。■金光は高校時代からプロ球界に注目された選手だった。1973年夏の甲子園では、主将として広島商高を優勝に導くなど傑出した選手だった。その後進学した法政大では東京六大学リーグで優勝5回、さらに明治神宮大会連覇に貢献し、江川卓らとともに「花の(昭和)49年組」と呼ばれた。そして迎えた1977年のドラフト。当然プロ球界は金光に熱い視線を送った。本人もプロ入りを希望、そして地元・広島への入団を熱望した。広島もその気で、両者は相思相愛だという報道もあった。だが結局、広島が金光を指名することはなかった。代わって指名したのは近鉄だったが、金光をこれを拒否し、その後はアマチュア野球の指導者の道を進むことになった。■もしこの金光が希望どおり広島に入団していたら、1979年の日本シリーズ第7戦・9回裏の展開はどうなっていたのだろう? ひょっとしたら、まるで違ったものになっていたのではないか???ここからが、ボクの妄想である。金光のポジションは内野手。当時、広島のショートは高橋慶彦だったからポジションを奪うことは難しい。だが三塁手ならポジションを奪取する可能性は十分にあった。もし金光が三塁を守っていたら、佐々木恭介の一打がどうなっていたのだろう? 三村は後に「あの時、自分の身長が低くて助かった(173cm)。もし衣笠が三塁を守っていたら、グラブの先に打球を当てて、フェアになっていたと思う」と語っていた。ちなみに衣笠祥雄の身長は175cm。金光の身長は179cmである。もしこの場面で金光が三塁を守っていたら、きっとグラブの先に当てて、打球はフェアになっていたに違いない。だとすれば、三塁走者の藤瀬史朗、二塁走者の吹石徳一が相次いで生還し、近鉄は日本一を達成していたかもしれない、と。※金光の身長が179cmもあったら、打球はグラブに収まり、5-2-3の併殺が成立したのでは? といった指摘もあると思うが、それはボクの妄想には存在しない。念のため。今日も1クリックお願いします