近鉄の「ムーンライト・グラハム」に会いに行きたい~江渡辰郎。そして先日亡くなった武智(旧姓田中)文雄のこと
前回の続き。■前回、丁銀隆(ちょうぎん たかし)さんのことを書いた。昨夜のことである。今朝起きて読み直してみると、あまりに情報量の少ない記事だったため、丁銀さんが在籍した当時の近鉄パールスのことを最後に書き加えた。その時代の主力投手だった武智(旧姓田中)文雄さんのことを中心に。書き終えてブログをアップすると、その途端、武智さんの訃報を伝える、おたけさんのブログが目に飛び込んできた。今月1日、心不全で亡くなったそうだ(享年86歳)。ボクは武智さんのことを詳しく知っているわけではない。たまたまブログに書いただけである。なのに、その直後に訃報を聞いたのは、何故なんだろうか?これは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』でレイ・キンセラが聞いた謎の声"If you build it, he will come."(それを作れば、彼が来る)と同様、何かのメッセージだろうかと思えてくる。極めて的外れなポジティブシンキングであろうことはわかっているが(笑)、これからも近鉄にこだわっていこうと意を強くした。こだわり続ければ誰かが来る、のだ。いったい誰かわからないけれど。<武智(旧姓田中)文雄さんのこと> wikipediaより以下に引用。岐阜商高を経て、戦時中は予科練に入隊。戦後、ノンプロチームの大日本土木でプレーした後、1950年に新設の近鉄パールスへ入団。初年度から一軍入りするものの、夏までに1勝も挙げることができず、藤田省三監督の反対を押し切って上手投げからアンダースローに転向。9月23日の大映スターズ戦では、スタルヒンと投げ合って初勝利を挙げている。下手からの切れのいいシュートを武器に、エースとして弱小チームを支えた。1954には26勝を挙げ、最多勝利を獲得。1955年6月19日、大阪球場で行われた大映戦では、プロ野球史上2人目の完全試合を達成している。なお、同年8月30日の大映戦でも9回1死までパーフェクトに抑えている。■近鉄の「ムーンライト。グラハム」を調べ始めて、今日が第3回目。今回は江渡辰郎(えと・たつお)さん。近鉄に在籍したのは1963年(昭和38年)の1年間のみ。『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)によれば通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)、ポジションは野手だった。しかしネット検索では、ポジションは投手、しかも近鉄在籍期間は1959年から65年までの7年間と出ていた。どちらが正しいかは不明だが、『近鉄バファローズ大全』を信じることにしよう。その他のことは以下のとおり。背番号48。ポジションは不明(野手)。県尼崎高出身。身長180cm、体重70kg。右投げ右打ち。1940年生まれ(現在73歳)。※前回の丁銀さん同様、県尼崎高出身。江渡さんは丁銀さんの6年後輩ということになる。甲子園出場経験はないが、江渡さんが高校3年だった1958年夏の甲子園を制したのは柳井高。準Vは、エース・坂東英二を擁した徳島商高だった。■江渡さんが在籍していた1958年の近鉄のこと。前出の『近鉄バファローズ大全』より以下に引用。・1958年この年より、芥田武夫に代わり、加藤久幸(旧名春雄)が監督を務めた。また、この年、日生球場で初めてナイターが行われた。同年、長嶋茂雄が巨人に入団したことで、プロ野球人気が一層盛り上がり始めた。近鉄も負けていない。巨人の監督争いで川上哲治さんに敗れた千葉茂さんを監督に招聘した。名称もパールスからバファローに変更して巻き返しを図ったが・・・。結局はうまくいかなかった。61年、千葉さんは失意のまま監督を辞任することになる。<参考>・webサイト「notama」・雑誌「高校野球 忘れじのヒーロー」(ベースボール・マガジン社)今日も1クリックお願いします