1967年、小玉明利が”たった一年限りの”近鉄監督に就任。
最近、時代があちこち移っていましたが、今回から1967年(昭和42年)に戻ります。■この年、近鉄バファローズは岩本義行に代わり、小玉明利が新監督に就任した。ただこの名前を聞いてもよほどのオールドファンでない限りご存じないはず。小玉とはいったいいかなる人物だったか? その説明から今回のブログをはじめましょう。小玉が近鉄に入団したのは1952年秋。新聞で「プロ野球選手募集」の求人広告を見て応募し、入団テストを受けて入団した。まだ神崎工高の2年生だったが、テストで小玉のプレーを見た当時近鉄捕手の根本陸夫が、芥田武夫監督に小玉獲得を進言して実現したという。■当時の近鉄は「お荷物球団」と揶揄されながらも、スター軍団東京六大学リーグの選手をかき集めてチームを構成しており(※)、小玉は入団当初「周囲の選手を高級ネクタイ、高校中退で無名の自分は使い捨ての安ネクタイ」と卑下するほどだった。※近鉄の球団設立当初(1950年)、初代監督は法大監督だった藤田省三。25選手 の内17人までが東京六大学出身者(法大11、明大3、立教2、早大1)という徹 底ぶり。前出の根本も関根潤三とともに入団した法大出身の選手。ところが小玉、入団2年目から巧打の三塁手としてメキメキ頭角を現す。132試合に出場して打率.264の成績を残すと、その後は打率3割を6度マークするなど打撃十傑の常連に成長した。特に内角打ちが得意で大毎山内一弘並みと評されるほど。長打力こそなかったものの4番を任されるに至った。入団時に自らを卑下した「安ネクタイ」がいつの間にか「高級ネクタイ」に変貌した。それにしても驚くのは根本の選手を見出す「眼力」。後に近鉄は根本を手放すことになったが、もし根本が近鉄に居続ければ、近鉄の歴史はおそらく違うものになっていたのではないか。つい、そんなことを想像してしまう。ま、これは余談。■そして、思いがけず小玉に監督の大役が巡ってきたのは、近鉄入団から14年後の1966年のこと。しかも選手層の薄い近鉄ゆえ、選手兼監督としての要請だった。小玉はその厳しさを覚悟の上で、要請に応えた。千葉茂、別当薫、そして神主打法の岩本義行と、近鉄は三代続けて外様の大物監督にチームを委ねてきたが、この時、やっと自前の選手を監督に押し上げた瞬間だった。監督就任後、小玉は頑張った。1967年5月には5連勝して、なんと近鉄がリーグ首位に立ったのである。この「春の珍事」にマスコミは沸いた。このことを浜田昭八さんは「皆既日食に出くわすほどの希少価値」(『近鉄球団、かく戦えり。』日経ビジネス人文庫)と書いた。しかしその2日後に首位を滑り落ちると、以後はずるずると後退し、結局最下位でシーズンを終えた。浜田さんは書く。「兼任監督は気苦労が多かった。守っていても、ブルペンの様子が気になった。逃げ切り体制に入った時などは、自分の拙守で試合がもつれてはいけないと、消極的な姿勢になった。代打起用では打率が低くても、小玉の目を見て起用を訴える選手を選んだ。残念ながら、そのタイプの選手は少なかった」。■小玉はたった1年で監督を降り、そして近鉄を退団して、一選手として阪神に移籍する。代わって近鉄の監督に就任したのは三原脩である。実は三原の監督就任は、小玉が監督に就任するときからすでに決まっていた球団の既定路線。小玉の成績がよかろうが悪かろうが、たった一年で監督の任を終える運命だったのだ。「安ネクタイ」が「高級ネクタイ」になったと思ったら、さらにそれを上回る「高級ネクタイ」三原に監督の座を奪われた。事前に小玉は知っていたか不明だが、失意の中で近鉄を去ったであろうことは想像に難くない。かつての千葉茂もそうだった、近年では鈴木啓示もそうだった。近鉄の監督は、どうにも「失意」という言葉が妙に似合う。いや近鉄に限らない、プロ野球の監督は勝つことが仕事。勝ち続けることができなければ、いつかはそうなる、といったほうが正しいのかもしれない。■小玉は阪神に移籍し、その2年後に現役を終えた。通算安打数は1963本。2000本安打まであと37本を残しての引退だった。あと37本、何とかならなかったかな? それが残念。(写真)小玉明利。~『近鉄バファローズ球団史』(ベースボール・マガジン社)より~