鶴岡一人さんが日経『私の履歴書』で語ったこと(3)泣きっ面に蜂、別所引き抜き事件と三原ポカリ事件(下)
前回の続き。http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201602180000/ ■いわゆる「別所毅彦引き抜き事件」に対し、日本野球連盟が巨人ビイキの裁定をしたのは昭和24年3月のことでした。そして、その直後にこの年のプロ野球は開幕。4月12日からは、当事者である巨人と南海が3連戦を後楽園球場で行いました(注・当時は1リーグ制でした)。世間は別所引き抜き事件の「遺恨試合」と呼び、連日大入り満員の盛況ぶりでした。最近で言えば、「巨人・江川vs阪神・小林」(最近と言っても、結構旧い話題ですが笑)、もしくは「近鉄・デービスvs西武・東尾」みたいなものだったでしょうか(あ、これは全然違うな)。■一戦目は、巨人が川上哲治の逆転満塁本塁打で勝利し、続く二戦目は1点差で南海が雪辱、そして三戦目に「三原ポカリ事件」が起きました。それは9回表、南海攻撃中のことです。この回に1点差に追い上げた南海は、なおも走者一塁の場面で代打・岡村の打球は痛烈な一ゴロ。川上が捕球後にすぐさま二塁に放り、ショート白石が二塁ベースに入って、続けざまに一塁へ転送。誰しもが3-6-3の併殺と思いましたが・・・、どうしたわけか、一塁走者筒井の左手と白石の右手が触れたようで、白石は球を投げられませんでした。一塁はセーフ。悪質な守備妨害とみた白石は「何をしとるんなら!」と広島弁で怒鳴ると、筒井も負けずに「何を!」と言い返したため口論となり、両軍の選手たちが大挙して二塁ベース付近に飛び出す始末。そして、巨人ベンチから真っ先に飛び出した三原脩監督が筒井に近づくなり、いきなり殴りかかりました。監督が相手チームの選手を殴るなど前代未聞の出来事でした。■南海監督だった鶴岡一人さんは、この時のことを振り返ります。「ベンチから見た限り、それは併殺を防ぐための当たり前のプレーだった。この時、(巨人の)三原監督がベンチから飛び出して二塁へ向かった。審判に抗議でもするのかなと思ったら、いきなり(南海の)筒井の頭をポカリとやった。(巨人の)白石君は日頃おとなしい人。それが怒るのだから、悪いのは筒井と決めてかかったとしか思えない。結局、三原さんは退場となり、その後の連盟裁定でシーズン終了まで出場停止となった。しかし、その処分もなぜか、百日間で終わった」。そして、「三原さんも当時は若くて、血の気も多かったのだろう。それにしても、エースを引き抜かれた側がポカリとやられたのだから、これは遺恨というには、あまりにも珍妙というほかない」。鶴岡さんにとっては、まさに泣きっ面に蜂。別所を引き抜かれ、さらに自軍の選手を叩かれたのだから、怒りで振りあげた拳をいったいどこに下すか、さぞ苦悶したことでしょう。■ここで余談ながら。別所引き抜き事件では巨人に有利な裁定があり、さらに三原ポカリ事件も三原の1シーズン出場停止処分だったはずが百日間だけに短縮されるなど、この当時はなぜか巨人ビイキの裁定が続きました。南海鶴岡さんにとっては、腹立たしい裁定ばかりだったはずですが、この時のコミッショナーは、実は初代コミッショナーの正力松太郎さんだったのですね。いえ、だから巨人ビイキの裁定ばかりだったと短絡的に言うつもりは毛頭ありませんが、当時日本野球連盟の会長だった鈴木龍二さん(後にセ・リーグ会長)が著書『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社)で当時のことを述懐しています。「当時プロ野球は、機構の統制機関としての社団法人日本野球連盟と、営業を担当する株式会社日本野球連盟に分かれていて、社団法人の会長が鈴木惣太郎さん、株式会社のほうの会長をぼく(鈴木龍二)がやっていた」。どちらも日本野球連盟という名称で(株)か(社)の違いしかなく、さらに会長の名前も鈴木惣太郎と鈴木龍二の同姓でややこしいことこの上ないのですが(笑)■で、本題へ。別所引き抜き問題が起きた時、当時選手の契約問題を担当していたのは(社)日本野球連盟の鈴木惣太郎会長でした。以下も『鈴木龍二回顧録』より。「そこで惣太郎さんが別所を呼んで話を聞くと、別所の意思は相当に強硬だ(つまり、別所の意思は、南海を離れて巨人に行きたい!と)。巨人の別所に対する要望も強いことがわかった。では(読売新聞社常務の)武藤氏を呼んで聞こう、ということになって(中略)ボクが立ち会って、惣太郎さんと武藤氏が会って事情を聞いた。会った結果、とにかく一応裁定を出しますよ、と(惣太郎さんが)言うので、正力松太郎さんの意向も打診した結果出したのが『別所選手を自由選手として、元いた南海に2日間の優先交渉権を与える』というものだった」。「(南海の)松浦代表は別所を呼んで話し合ったが、別所の気持ちは動かず、優先交渉の期限が切れたところで、別所は巨人へ入団ということになった。松浦代表と別所の話し合いは昭和24年3月18日、19日のことである。これで3月27日、正式に(別所は)巨人に入団したのであるが、その原因を作ったのは巨人にある、と言うので巨人に罰金10万円、別所には2か月間の出場停止のペナルティが課せられた。そして巨人から南海に21万円のトレード・マネーが支払われた」。これで一件落着のようですが、実は当時の鈴木惣太郎は読売に雇われていた身であり、正力松太郎との個人的なつながりもあったため、巨人の請託を受けて別所問題を裁定したとの批判が相次ぎました。このような批判に対し、鈴木龍二さんはこう言い切って鈴木惣太郎さんを援護します。「惣太郎さんは、大リーグ方式の理解者で、そういうことをやる男ではない。(中略)この問題が解決してからも、たびたび『オレは公正にやった。それなのに巨人にひいきしたと言われるのはかなわん』という発言をしばしば耳にしたが、2日間の優先交渉権を与えたことは、惣太郎さんの誠意であったと、ぼくは今でも思っている」。事前に別所の強硬な意思を知り、たった2日間の南海との交渉期間を与えたからと言って、その間に別所の意思が翻る可能性が僅かでもあったのでしょうか? その2日間がはたして会長としての誠意と呼べる代物だったのか、ボクは疑問に思うところでありますが。さらに鈴木龍二さんは、三原ポカリ事件についてもこう述べています。「昭和24年4月14日に起きた事件。この事件の裁定をしたのも、正力さんの意向を受けた惣太郎さんであったが、三原監督にシーズン中出場停止という、現在では考えられないような厳しいものであった。7月21日解除されたが、正力コミッショナーの、公式の任務を果たした、公正な裁定であったと思う」。そして、「別所の引き抜きに、三原君が黒幕として関与したようにいわれているが、ぼくは三原君はそれほど関与したとは思っていない。別所問題も、三原事件も、裁定を下したのはコミッショナーの正力さんだった(後略)」。はてさて、これら鈴木龍二さんの回顧録をどう読むか??? それは、このブログに来ていただいた皆さま各々の判断に委ねたいと思います。<関連記事>正力松太郎 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201601160000/鈴木龍二 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201203300000/(写真)南海・鶴岡一人監督と巨人・三原脩監督の、仲直りの握手?~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より~。この写真は昭和24年4月の「遺恨試合」といわれた南海vs巨人の一コマと推察します。表面的には仲直りした様子の2人ですが、この3か月後、この2人に不幸な出来事が同時に起きます。昭和24年7月、シベリアに抑留されていた水原茂が復員し、それがため後に三原は巨人監督を追われるきっかけとなりました。そして同じ7月(3日)、鶴岡にも不幸が訪れました。愛娘の長女・千鶴子が誤って南海電車の踏切に入り、電車にはねられて死亡する事故が起きました。この時、たまたま娘を連れていたのは鶴岡の実母でした。娘の死、そして自分が関わって孫を亡くした実母の無念は、察するに余りあります。