【甲子園1942夏】甲子園の正史から抹殺された『幻の甲子園』
幻の甲子園 昭和17年の夏」。BS朝日『ザ・ドキュメンタリー』を見ました。■甲子園大会の歴史を紐解くと、戦時中の昭和16年~20年までは中止と記されていますが、実は昭和17年夏だけ甲子園大会が開催されました。でも国(文部省)が大阪朝日新聞から権利を奪って主催したため、甲子園の正史にはその記録が残っていません。「幻の甲子園」と呼ばれる所以でもあります。この時はルールも特別でした。戦意高揚を目的とした大会だったため、選手交代禁止、投球をよけること禁止等。逃げることなく、身体・精根尽き果てるまで戦え!といった趣旨だったと想像します。 ■番組のカメラは「幻の甲子園」に出場した元球児たちを追いました。決勝を戦った平安と徳島商、そして準決勝で敗れた広島商、海草(現・向陽高)を。特に印象深かったのは、当時広島商の剛速球投手として鳴らした澤村静雄さん(91歳)です。久しぶりに訪れた広商グラウンドでは、ネット裏のイスに遠慮がちに腰掛けて、当時の心境を振り返りました。「わしは考えていたね、来年は戦争じゃけ、力いっぱいやるわ。青春を謳歌しとかな損やから」と。そして、野球部長や監督の計らいで用意された後輩選手への激励では「記録には一切残っていないけれど、母校のため、仲間のため、そして明日の命さえ知れぬ自分のために、一所懸命に戦った先輩たちがいたことを記憶にとどめてほしい」と訥々と語りかけていました。さらにその後、澤村さんは甲子園のマウンドに立つ機会を得ました。73年前の甲子園では自身の肩の故障で準決勝で敗れた苦い記憶を引きずってきたとのことでしたが、それが吹っ切れたような晴れやかな表情になり、そして一緒に戦った仲間たちの笑顔が蘇ったと云い、澤村さんの目には涙が溢れて止まりませんでした。 ■今年も夏の甲子園が始まります。それはこれまでの伝統の積み重ねの上にあるわけですが、その伝統には、記録にないものの選手たちが懸命にプレーした「幻の甲子園」があったことを記憶に留めておきたいと思います。 (写真1)「幻の甲子園」から73年ぶりに甲子園のマウンドに立った澤村静雄さん。~BS朝日より(写真3まで同じ) (写真2) 広商グラウンドのネット裏にて。 (写真3)後輩の広商ナインに語りかける澤村さん。最後に「もう10年も甲子園に出とらん。ぜひ頑張って出てください」の言葉も忘れませんでした。 (写真4)『幻の甲子園』(早坂隆著、文芸春秋社)