【甲子園2019夏】「死球」と言い張る人と、「死球じゃない」と言い張る人 ~ 達川光男、菅原謙伸
今夏の決勝戦、始球式に登場したのは広島商OBの達川光男さんだった。64歳。右手に息を吹きかけた後に振りかぶると、投じた一球はまっすぐに捕手のミットへ届いた。しかし、高めに大きく外れた。「打者に当ててはいけんと思って、外角高めに外れた。本来ならここで投げるのは今は亡き佃正樹だった。今日は佃の分までしっかり投げてこい、と言われてきた」と達川さんは話した。 達川さんと言えば、死球の虚偽のアピールでも名を馳せた(?)かた。この達川さんが口にしたのは、とても懐かしい名前だった。(写真1)始球式の達川光男さん~NHKより。写真3、写真4もNHK。 佃正樹さんーーー。1973年夏、広島商で達川さんとバッテリーを組み、甲子園大会に優勝した投手。細身の左腕に黄色い声援も飛んだ。当時は作新学院の”怪物”江川卓投手を中心に高校野球界がまわっており、どの高校も”打倒、江川!”に闘志を燃やしていた。その急先鋒だったのが、広島商だった。事実、同年センバツの準々決勝では、江川から奪った安打はたった2本だったが見事に勝利を収めた。 高校卒業後、佃さんは法政大に進学した。エースの座を約束されての進学と見るムキもあったようだが、土壇場になって慶應義塾大の受験に落ちた江川も法政大に進学、佃さんにとって事態は暗転した。「江川は怪物でした。とても勝負になりませんよ。プロ入りは、大学に入学してすぐ諦めました」(佃さん)。大学卒業後はノンプロの三菱重工広島に進み、ついにプロ入りすることはなかった。そして2006年、52歳の若さで亡くなった。(写真2)『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社)より。 さて、今年8月11日に行われた2回戦の明石商ー花咲徳栄戦では、とても珍しいプレーがあった。7回表、1点差を追う花咲徳栄の攻撃の場面。一死後、右打席に立ったのは9番・菅原謙伸。相手投手が投じた2球目のスライダーが内角へ行き、菅原の肩に当たった。しかし、菅原は一塁へ向かう素ぶりを見せない。 「すこし前かがみでよけてしまった。あれは自分が悪い」とアピールし、心配してくれた主審のほか相手・明石商ベンチにも頭を下げた。達川さんの例を持ち出すまでもなく、死球でなくとも死球とアピールしてもよい場面だったが、菅原はそれをしなかった(記録はボール)なんというフェアプレー精神だろう。 (写真3)2球目、菅原の肩に当たる・・・ そして、この物語には続きがあった。直後の3球目、真ん中に甘く入った球をフルスイングすると、打球は一直線にレフトスタンドへ。同点弾は、菅原にとって記念すべき公式戦第1号となった。 強打者揃いの花咲徳栄にあって、非力な菅原は、いわばディフェンス要員。しかし岩井監督をして「甲子園に出場できたのは菅原のおかげ」と言わしめた。例年よりも投手力が劣るように見えた同チームにおいて、厳しい埼玉大会を勝ち上がるには欠かせぬ存在だった。 菅原は試合後、「いろんな方が見ている。ここは聖地だし、埼玉の代表として出場している。花咲が出てきてよかったと思われるプレーをしたい。当たりに行くようなプレーをしてはいけない」と話した。 試合には敗れたが、清々しい印象を残して甲子園を去った。実は、この菅原は岩手県出身の選手。 少年野球時代には、岩手県大会開会式で現在大船渡高のエース・佐々木朗希と偶然隣り合わせたことが縁で、仲良くなったんだとか。そして実際に対戦し、当時投手だった菅原は佐々木に本塁打を浴びた。甲子園でのリベンジを切望していた菅原だったが、その夢は叶わなかった。(写真4)直後の3球目、野球の神様が打たせた本塁打⁉2019世代 いわて高校野球ファイル[本/雑誌] / 岩手日報社