1945年、大下弘、東西対抗戦に鮮烈デビュー【大和球士著『野球百年』を後ろから読む】
戦後プロ野球のスタートは1945年(昭和20年)11月23日、神宮球場で行われた東西対抗戦だった。 終戦からたった3か月後、東から西から握り飯を抱え、すし詰めの満員列車の通路に寝て、戦争を生き抜いてきた選手たちが集まった。バットやボールに触れたのは久しぶり、練習不足は否めないが、新鮮な息吹が感じられた。そこに登場したのが終戦とともに彗星の如く現われた ー 戦前には見ることのない、青空に白球が舞う華麗な打球を放つ打者 ー 大下弘だった。 この試合、まだプロ野球のセネタースに入団して間もない大下は東軍の5番打者で出場。6打数3安打、うち一本は右翼350フィート(約107メートル)のフェンスに直接ぶつけた三塁打だった。その後も行われた関西の東西対抗戦でも活躍し、この大会計4試合の本塁打賞、最優秀選手賞、殊勲賞をすべて一人占めして、鮮烈なデビューを飾った。 大和球士さんは、大下についてこう書いた。「五尺七寸(173cm)、すらりとした好男子ながら、手首の強靭さは稀れに見るところで、打球は大きく高く、大空から右翼スタンドに゛虹の橋”をかけわたした。虹のホームランであった」。そして、「戦後再開されたプロ野球は、大下の旋風的人気を中心にスタートを切ったといっても過言ではなかった。大下のホームラン見たさに観客は球場へ詰めかけた」。 大和さんは大下をべた褒めだったけれども、終戦後たった3か月で行われた東西対抗戦は、とても有意義なことだった。大和さんはこうも書いていた。「この試合には新鮮な息吹きが感じられた。プロ野球は復興する。復興の前奏曲であった。序曲でもあった。前日の雨はすっかり晴れ上がり、あくまで秋の空は澄みわたっていた。あたたかく、無風。絶好の野球日和であり、プロ野球の前途も、この日の大空のようであろうと思われた。大吉の占いが出たようであった。試合の内容など論じる必要はない。終戦後3か月で野球試合をやれたことに感謝しなければなるまい」。 また東西対抗戦については、大和さんは別の著書『真説・日本野球史』にも書いている。食べることさえままならない時であっても多くの人々が神宮球場に詰めかけた。いま新型コロナウイルス禍にあって野球を見ることは叶わなけれど、以下の大和さんの文章は、いつもボクの心にある。 「この試合(終戦から3か月後に行われた東西対抗戦)、終戦直後の大混乱期に開催されたにもかかわらず、4万5千人の大観衆が詰め掛けた。神宮球場で行われるのは1942年(昭和17年)以来5年ぶりではあったが、内野席を超満員にし、外野席も7割がたが埋まったという」 「一体どこから4万5千人もが集まってきたのであろうか。(中略)単純な野球愛というよりは、敗戦から立ち上がろうとする日本人の活力の発露と見る。野球人に強靭な精神力があったことは頼母しく、日本人に祖国再建の活力がみなぎっていたことはいよいよ頼母しい限りである。野球人、野球ファンが『ニ位一体』となって野球復活は快速調に進むことになる」 75年前と同様、いつか青空のもと、何万人もの人たちが晴れ晴れとした表情で球場に足を運ぶ日が来るでしょう。その日を夢見て、いまは辛抱ですね。 (写真)突如登場した白面の貴公子、大下弘 ~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球』(ベースボール・マガジン社)より。【中古】 大下弘虹の生涯 / 辺見 じゅん / 新潮社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】野球五十年(増補新版) / 大和球士 【中古】激動の昭和スポーツ史 1 プロ野球 上【中古】