前回の続き。
■1971年、「アンノン族」「脱サラ」「ディスカバー・ジャパン」が流行語になった。また、CMでは「となりのクルマが小さく見えます」(日産)、「がんばらなくっちゃ」(中外製薬)、そして「♪振り向かないで すてきな髪のあなた...」「あのう ちょっとすみません エメロンクリームリンスです ちょっと うしろを」「イヤー いやだなー」(ライオン)のCMが始まり、その後7年間も続いた。
■政界では、第9回参院選が行われた。田英夫がトップ当選、立川談志も最下位ながら当選した。
同年、佐藤(栄作)は内閣改造し、田中角栄を通産大臣に据えた。まったく解決できずにいた米国との繊維問題を解決しろ! との意図があった。以下、『田中角栄』(早野透著、中公新書)より。
(前任者の)頭のいい宮沢喜一がスジ論にこだわって解決できなかったことを、角栄は金で始末した。角栄は「沖縄返還は決まっていたのだから、わたしがナワ(縄)とイト(糸)を取り換えっこしたわけじゃないんだ。しかしね、ナワとイトを交換できるならば、それはすべきだなと回想する。ニクソンは味をしめた。外交と利権を絡ませ、角栄が応えた。ニクソンと角栄には、外交の節操がなかった。ロッキード事件はそこから起きた。
■芸能界では、美空ひばりが大晦日・紅白歌合戦の大トリで『この道をゆく』を歌い、この年71年を締めた。
しかし2年後の73年、実弟のかとう哲也の不祥事により、ひばり一家と暴力団山口組および田岡との関係を問題とされ、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、バッシングが起こりマスコミも大きく取り上げた。
これに対し、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずさなかった。その結果、73年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組のトリを務めていた紅白歌合戦への出場を辞退することになった。
美空ひばりがバッシングを受けた背景について『昭和芸能史』(鴨下信一著、文春文庫)に詳しい。以下に引用。
過激化した安保闘争、相次ぐハイジャック、赤軍派、あさま山荘と、(日本国内では)暴力騒ぎはウンザリだった。そんな中、かとう哲也逮捕の一件について、ひばりは(本名の)加藤和枝にもどって、「哲也は、永久に私の弟に間違いございません。お粥をすすって生きて行っても構わない」と言って、弟をかばい続けた。
弟たちのことを世間は責めたが、その責め方は現在とはだいぶ違ったものだった。ぼくはよく覚えているが当事者の弟たちよりは、家族全体が、特に母と姉が責められたのである。加藤家という「イエ」が非難され、父親が寄り付かなかったから、「家長」と見なされた母喜美枝と実質的な稼ぎ手であるひばりが監督責任を問われたのである。「イエ」の論理としては、母と姉が責任をとるのは当然のことだった。
この一連の事件は、「イエ」という家族制度が崩壊してゆく戦後日本の中で、歪つな形で残ったイエ的なものを鮮明に浮かび上がらせている・・・。