前回の続き。
■タイトルに大和球士著『野球百年』を後ろから読む、と書いたが、実は大和さんが1970年(昭和45年)について触れたのは、ほんの僅かである。
「昭和45年度のシーズンは、前年末に発覚した野球トバク事件が初夏まで尾を引いて暗いシーズンであった。縁起でもないから、先を急いで46年のシーズンに直進したい・・・」
‐‐‐ たったコレだけ。
1970年を書くには、いわゆる「黒い霧」事件に触れぬわけにはいかないが、正月早々縁起でもないので、それは事件が発覚した69年に譲るとして、今日は近鉄・佐々木宏一郎の完全試合について書きたい(なお、この件について大和さんは一切書いていないので、あらかじめご了承いただきたい)。
■佐々木が完全試合を達成したのは10月6日、対南海戦(於、大阪球場)だ。
翌日の朝日新聞には、「巨人、首位を死守」「パ、今日にも胴上げ、ロッテゆうゆう西鉄降す」の見出しの後に、「佐々木(近鉄)が完全試合」「実った9年の努力」と見出しを打っていた。
そして佐々木については、このような記事が書かれていた。
「6日大阪球場でおこなわれた南海-近鉄23回戦で、近鉄の佐々木宏一郎投手(27)=岐阜短大付高出=がプロ野球11人目の完全試合を達成した。佐々木投手の投球数は99、アウトの内訳は内野ゴロ10、内野飛球2、内野ライナー2、内野邪飛3、外野飛球6、三振4」。
この試合のスコアとメンバーを、以下に記載。
<スコア>
近鉄 000 000 201 =3
南海 000 000 000 =0
(近)○佐々木、(南)●三浦-上田
本塁打=土井正博11号、2点本塁打(三浦)
<近鉄・メンバー>
8 木村
H8 小川
6 安井
9 永淵
7 土井
3 伊勢
4 飯田
5 相川
H 北川
5 服部
2 辻
1 佐々木
■佐々木は183cmの長身ながら、アンダースローから繰り出す切れのいいシュートとスライダ-が持ち味の投手だった。この年は最高勝率のタイトルも獲得し、通算成績は132勝(152敗)。
決して順風満帆の選手生活を送ったわけではない。高校卒業後、テストで大洋に入団(1961年)。しかし、1年後に解雇され、近鉄にテストで入団する。この時、近鉄の監督は、佐々木が大洋に入団した時の監督・三原脩だったことは何かの縁だったろうか。
また投手コーチの武智文雄に出会えた運にも恵まれた。近鉄の入団テストに合格した際、佐々木の獲得を推挙したのは武智だったし、さらにプロ入り当初はサイドスロー気味のフォームで投げていた佐々木に、アンダースローへの転向を勧めたのも武智である。後に武智は、「佐々木がアンダースローになってから球威が増した」と評している。
近鉄球団史上、近鉄在籍期間に限って100勝以上した投手は3人しかいない。佐々木、鈴木啓示、そして佐々木を育てた武智である。
■そして1974年オフ、佐々木は南海・島本講平とのトレードで南海に移籍、81年をもって20年の現役生活を終えた。(89年没、享年45歳)
あ、そうそう。佐々木の完全試合を伝える朝日新聞には、こんなことも書いていた。
「大阪球場はどうも”パーフェクト”の縁がある。2年前の田中勉(元西鉄)もこの球場で、南海が相手だった」
田中勉。
「黒い霧」の匂いがぷ~んとしてきた。
(写真)佐々木宏一郎。~『近鉄バファローズ大全』洋泉社より~