前回の続き。
昨年11月、skyAが放送した番組『高校野球名将列伝』を見て。
■「和歌山に移ったのか、だったら尾藤を倒せよ!」
1980年(昭和55年)、高嶋仁が奈良・智弁学園から智弁和歌山の監督に転任した直後のことだ、池田監督・蔦文也は電話の向こうでそうささやいた。尾藤とは言うまでもなく和歌山の強豪・箕島の監督、尾藤公のことである。
通算の甲子園勝利数は「63」、今でこそ監督として断トツの勝利数1位をひた走る高嶋だが(2位は元PL学園・中村順司の「58」)、智弁和歌山に赴任した頃の野球部は、部員が15名ほどの同好会のようなものだった。甲子園出場を目標とする高嶋と、同好会気分の抜けない選手たち。厳しい練習を課すと、選手たちはすぐに音を上げた。
「まずは技術よりも(甲子園常連チームを)肌で感じてほしい」
その一念で、高嶋が練習試合を申し入れた先が池田だった。蔦はそれを快諾し、そして「尾藤を倒せ!」と高嶋にささやいた。もっとも蔦は、当時の智弁和歌山の非力を知った上で「和歌山を勝ち抜くためには、箕島を倒す気概をもてよ」という意味で言ったのだろうが。
いざ池田と試合をすると、予想どおり結果は散々だった。打たれまくって、いつになっても試合が終わらなかった・・・。しかし、収獲もあった。
「試合が終わると、選手たちがぽろぽろ涙を流したんですよ。はじめて負ける悔しさを知ったのです。私はね、彼らの涙を見て、こりゃ、ひょっとしたら甲子園が近いかな、と思いました」。
強豪・智弁和歌山の原点は、この池田戦の惨敗にあったようだ。
※甲子園勝利数は2013年8月現在。
■高嶋は長崎海星2年の時、選手として初めて甲子園に出場した。その時の感動を鮮明に覚えている。「これが甲子園というところか! と、感動のあまり足がガラガタ震えました。そしてこの時、将来は高校野球の指導者になって選手たちを甲子園に導く」ことを夢に見た。
その後、高嶋は日体大を卒業した70年、奈良・智弁学園の指導者に就く(最初の2年間はコーチ、その後72年から80年まで監督)。この10年間が、その後の高嶋の財産だ。指導者としてのイロハを学んだ。74年に起きた選手たちによる練習ボイコット事件も、後になってよい教訓になった。
それは、厳しい練習を課す高嶋に対し、選手たちが練習を拒んだことに端を発する。高嶋は監督を辞する決意をするほどに衝撃を受けた。しかし、野球部長の計らいで選手たちと腹を割って話す機会を得、選手たちを前に、高嶋は自身の率直な気持ちを語った。
「自分が甲子園に出場して感動した思いを選手たちに話しました。足がガタガタ震えたこと、そして監督をやっているのは、選手たちにも同じ経験をしてほしいからだと。するとね、主将だった選手が『監督、わかりました。一緒に甲子園を目指しましょう』と言ってくれてね・・・。はじめてお互いに分かり合えた気がしました」。
■この事件を契機に智弁学園のチーム力は急激に増し、高嶋にとっては、現在も続くサクセスストーリーの原点になった。
この話を聞き、ボクは以前読んだ、元・駒沢大監督の太田誠さんの著書『球心いまだ掴めず』(日刊スポーツ新聞社刊)の一文を思い出した。そこにはこんなことが書いてあった。
「駒大苫小牧を強豪に導いた香田誉士史監督が駒大を卒業後に赴任した際、いまでこそ強豪と呼ばれるも、当時は野球部というのは名ばかりで、選手はジャージー姿で長髪ばかりだった。選手も父兄も香田監督のいうことに耳を貸さず、反発されることすらあった。そんな時、香田さんは太田さんに「心も言葉もなかなか通じない」と相談したところ、太田さんが教えたのが「放下着」という言葉だった。
「ほうげちゃく」と読む。これは禅の言葉で、意味は「捨ててしまいなさい。捨てるという言葉も捨てて、雑念をすべて吐き出し、裸になって心を空っぽにしてこそ、初めて人々に受け入れられる」。
指導者とは、(いやそれ以前に)自分の意思を相手に伝え、共感を得、そしてともに行動を起こすためには、自分の鎧をとって裸になることこそ必要・・・ということなんだろう。
■skyAの番組中、いつもポーカーフェイスの高嶋が練習中にわずかに見せる笑顔が映った。この一瞬の柔和な笑顔が、選手たちの心を惹きつけるているように思う。高嶋が裸になった瞬間かもしれない。
高嶋は、選手たちに常々言っている。
「世の中出たら、しっかり生きていけ。後ろ指刺されるなよ。甲子園に出たプライドを持っていろよ」。
そして、
「いつも厳しい練習をしているのは、社会人になってから困難にあった時に『これくらいの苦労は野球の練習と比べたらなんでもない』と思ってほしいからよ」。
そう言って柔和な笑顔を見せた。
(写真)2006年夏の準々決勝、帝京を相手に大逆転勝利した瞬間の高嶋仁監督。~skyAより~