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あま野球日記@大学野球

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2014.01.12
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テーマ:日本野球史(134)
カテゴリ:大学野球

前回の続き。 

 

■1969年、夏の甲子園では三沢・太田幸司が国民的ヒーローになり空前の盛り上がりを見せたものの、プロ野球界は暗い事件に度々見舞われた。

10月7日、読売、報知の両紙が「西鉄・永易投手が八百長」と衝撃的なスクープ。当初永易はそれを否定していたものの、コミッショナー委員会は11月28日、同投手の永久追放処分を発表した。いわゆる「黒い霧事件」である。これは、永易だけにとどまらなかった。以降、次々に関与した選手や球団職員の名前が明らかにされ、国会を巻き込んだ大事件に発展した。
※「黒い霧事件」については後日、記述します。

そして「黒い霧事件」に世間が動揺する中、10月9日にはこれまでプロ野球界を牽引した正力松太郎氏が死去。さらに10月30日(日本シリーズ)第4戦に日本シリーズ史上初の退場事件が発生。また同じころ、金田正一が現役引退を表明した。

今になって考えると、この年は、プロ野球界が大きく変わる節目になった1年だったと思える。



■そんな時、もうひとつ別の事件が起きた。荒川尭をめぐる三角トレードと荒川殴打事件である。きっかけは、「巨人とヤクルト以外はプロに行かない」と宣言していた早稲田大・荒川尭を大洋が強行指名したこと。詳細は以下のとおり。

11月20日に行われたドラフトの指名順位は、1番目が中日、2番目が阪神、3番目が大洋。そして、荒川が希望するヤクルトは9番目、巨人は11番目だった。この時、目玉の選手は荒川のほか、同じ早稲田大の谷沢健一と、三沢高の太田幸司の3人。

大洋は当初、荒川を指名する予定はなかったという。なのに、なぜ荒川を強行指名するに至ったのか。その事情は、『ドラフト1位 九人の光と影』(澤宮優著、河出書房新社)に詳しい。

「大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)のオーナー・中部謙吉は、当初は荒川を指名する気持ちはなかった。ドラフト当日、予備抽選で大洋はくじの順番は3番目と決まった。この段階でスカウト陣の予想は1番目の中日は谷沢、2番目の阪神は太田を指名するだろうと読んだ。すると大洋は東海大学のエース上田次朗でゆこうと判断していた」

ところが、中日は谷沢を指名するも、阪神は予想に反して上田を指名した。大洋の予想が外れたのである。当時のドラフトは重複指名が出来なかったたため、上田以外の誰かを指名する必要に迫られた。

「太田を指名するか。中部は迷ったが、大洋の本拠地川崎球場は工場の町であるから、太田が入団しても女性ファンが来ないと考えた。それで実力派の荒川で行こうと決心した。なぜなら、大洋の森代表、スカウト陣はこぞって『荒川では獲得する自信がない』と訝ったが、中部には勝算があった。球団代表の森茂雄は早稲田OBで、元野球部の監督。荒川の恩師でもある石井藤吉郎監督は、森の教え子だった。この早稲田ラインで押してゆけば、荒川も入団に傾くかもしれない」。



■しかし、中部の当ては外れた。荒川は大洋入団を頑なに拒否、一年の浪人生活を覚悟し、一方大洋は12月15日に一時交渉の打ち切りを宣言する。そして間もなく、事件が起きた。巷では、まだ正月気分の残る翌70年1月5日夜のことである。

荒川が自宅付近を犬と散歩中、暴漢に襲われた。こん棒のようなもので後頭部を殴られ、後頭部や手のほかに右目付近も負傷した。この右目の負傷が後に、荒川の視力を低下させ、プロ野球選手として大成できない影響を残した。



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(写真)荒川尭。右は早稲田大時代、左はヤクルトアトムズ時代。~『プロ野球ドラフト史1999年版』(ベースボール・マガジン社)より~ 

 






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Last updated  2014.01.12 13:49:25
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