前回の続き。
■「来シーズンも監督を引き受けることになったが、諸君から信任されているかを知りたくなった。投票用紙を渡すから、私を信頼するものは〇印、そうでないものは×印を書いて提出してくれ」。
1966年(昭和41年)10月14日、阪急・西本幸雄監督は全コーチや選手を集め、そう提案した。いや、提案なんて生ぬるいものではない。拒否は絶対許さないといった命令口調だった。
この時、西本が阪急に来て、すでに4年が経っていた。しかしこれまでの成績はパッとせず、2位、6位、4位、5位と下位を低迷することが多かった。ネクタイ組とユニフォーム組、監督とコーチ、そして監督と選手の反目が複雑に絡み合っていたことが敗因の理由だと噂もあった。
■さて、信任投票の結果は...、
信任票 32票
不信任票 11票
白紙 4票
この結果を受け西本は、
「不信任票が11票もあっては、監督を続ける自信を失った。今日限り阪急のユニフォームを脱がせてもらう」と言って、自宅に帰ってしまった。
■以下、大和球士著『野球百年』(時事通信社)より引用。
「これが、プロ野球30年史上初の、
-信任投票事件
であった。事件の結末までを克明に追えばなかなかスリルに富んだ経過をたどることになるが、簡略化して報告すると、親会社である阪急電鉄社長小林米三のじきじきの出馬となり、
『西本君以外の監督は考えていない。一か月かかっても西本君を説得し給え』
の号令が背広組に飛ぶに及んで、西本の立場は一挙に有利になり、(5日後の)19日には一転して留任となった」。
さらに続けて、
「この信任投票事件が飛躍台になり、阪急が翌42年に、チーム結成以来初の優勝をとげることをだれが想像したであろうか。そればかりではなく、阪急は安定チームとなって、
-3年連続優勝
をとげることになる」。
■かくして、翌67年(昭和42年)、阪急は初優勝を飾った。西本は、後になって信任投票をやった理由を「当時、チームにはいろいろ雑音があった。しかし現場組が一つにまとまるのならば、おれはやれる情熱をもっていた。その狙いで投票させた」と述懐していた。
ここまで書いて、当時の阪急にはいったいどんな選手がいたかを知りたくなった。
サイト『スタメンアーカイブ』で67年の開幕戦オーダーを調べてみた。その結果は・・・、
1(4)住友
2(5)森本
3(7)ウインディ
4(8)長池
5(9)早瀬
6(3)石井晶
7(6)山口
8(2)岡村
9(1)米田
この当時、阪急にはスペンサーがいたが、開幕戦には出場していなかった模様・・・。
(写真)阪急時代の西本幸雄監督、右は青田昇コーチ。~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球 下』(ベースボールマガジン社)~