慶応が沖縄尚学に逆転勝ちし、4強入りを決めた。ベスト4進出は1920年(大正9年)以来103年ぶり。神奈川勢8年ぶりの4強。
(準々決勝)
慶應 000 006 100 =7
沖縄 000 200 000 =2
(慶)鈴木-松井-小宅、(沖)東恩納-儀部-伊波-照屋
大和さんの著書に、こんな記述を見つけた。
「1920年(大正9年)の第6回大会に問題が起きた。九州代表の豊国中学の投手として、前年は法政大学の投手として対早稲田大戦のマウンドを踏んだことのある小方が、選手名簿に記載されていたからであった。どう考えても大学投手が中学投手に戻るのは合点がいかぬと第8回大会からは出場選手資格が厳格になり、年齢、転学、落第などに条件をつけるようになった」。
調べてみると、小方とは豊国中(現豊国学園)の小方二十世(おがた・はたよ)投手のことだとわかった。1回戦で鳥取中(現鳥取西)を相手に、背番号「1」を背負って先発したのだが、この小方、実はその前年に法政大の投手として慶應大や早稲田大相手に計4試合登板していたのがわかった。
大会が始まってから「大学から中学に転校するのはおかしい。出場する資格はない」という声が上がったが、当時の出場規約は曖昧で当該校の校長が認めていれば、主催者側は文句を言えなかったようだ。
小方は青山学院中(東京)出身で豊国中とは何の関係もない。なぜユニフォームを着て試合に出場していたのか分からないが、甲子園(正確には、当時は鳴尾球場)で勝利するために学校が”助っ人”を頼み、小方も”お気軽に”応じたことが真相なのかもしれない。それだけ当時から野球熱が高かった証と言えるだろう。