木戸羽
先日、銭湯で高田森に「木戸羽があたらしくなったから、今度行ってみよう」と誘われていたことを思い出した。実は木戸羽には一度も行ったことがなかったので、これはいい機会と、さっそく高田森に頼んで木戸羽に連れて行ってもらった。 日本橋にある木戸羽に着くと、開門前だというのに入り口にはすでに何人かが列を作っている。彼らも私も高田森も暇人であることには間違いなく、暇人であるからこそ木戸羽に集まるのだろう。 程なくして木戸羽の番頭がビールグラスと小さな板切れを持ってきて、並んでいる一人一人に配りだした。高田森が言うには、板切れのほうが通行手形のようなもので、ソレと引き換えにビールグラスに大人ビールを注いでもらって、木戸羽の中を歩きながら呑むのだという。 そうこうしている内に開門の時間となった。初めての人は門をくぐる時に少し眩暈を起こすかもと高田森は言っていたが、そうでもなかった。私は酒があまり呑めないからだろうか? 入り口には木戸羽の子供たちがいて、実にニコニコと笑っている。その子供たちに先ほどもらった板切れを渡すと、子供たちはその板切れを指でこすったり日に翳してみたりしながら、なにやら熱心に板切れを確認している。中にはちょっとかじっている子供もいたが、あとで高田森に聞くと、板切れが本物かどうかを確認しているのだという。何分か待たされた後、やっと信じてくれた子供たちから私の持っているグラスに大人ビールが注がれた。 関所のような入り口を抜けたところで高田森は待っていてくれた。随分疑われたなと笑われたが、初めて入るのだから仕方がないとも言われた。 先の見えない薄暗い通路を進んでいくと、やがて石畳の広がる川縁に出た。そこには木製の大きなイスが2つおいてあり、後はただ広く川原が続いているだけだった。私と高田森はそのイスに座り、入り口で子供たちにもらった大人ビールを一口だけ呑んだ。初めて呑む木戸羽の大人ビールには何の味も感じられなかったが、ほんのりと杏の香りが付いているようだった。 「この景色は、お前が思っている楽しかったときの思い出の場所とよく似ているのかもしれない」 高田森にそう言われてみると、三年前に行った川代岳によく似ていた。私は、そのとき初めて2人に出会ったという事を思い出した。高田森も思い出していたのか「今度は良先生も誘ってみよう。そうしたらもっといろいろなことを思い出すかもしれない」と言ったが私はあいまいな返事しか出来なかった。なぜなら、向こう岸に座っている良先生は相変わらず一人きりで寂しそうだったから。 私が大人ビールを呑み終えると同時に、木戸羽のベルが鳴った。私と高田森が大慌てで店の外に飛び出すとあたりはすでに暗くなっていて、規則正しく並ぶ銀座の街灯がどこまでも続いていた。思い出したように振り返ると、木戸羽はもうそこにはなかった。