薄田泣菫「茶話」「伍廷芳」
伍廷芳 支那の伍廷芳が全権公使として米国に駐《とどま》つてゐた頃、ある日|市俄古《シカゴ》に招待《せうだい》せられた事があつた。伍廷芳は尻尾のやうな弁髪《べんぱつ》を後に吊下《ぶらさ》げながら出掛けて往つた。 伍廷芳は逢ふ人|毎《ごと》に、とりわけ婦人《をんな》さへ見れば、支那人に持前のお愛嬌をふり撒いた。着飾つた婦人連は、九官鳥に挨拶されたやうな変な表情をして顔を見合はせた。 折柄《をりから》そこへ来合はせたのは一人の紳士で、伍廷芳とは初めての対面だつた。紳士は無遠慮に言つた。 「伍廷芳さん、近頃お国には貴方がしておいでの、尻尾のやうな弁髪を廃《や》めようつて運動が起きてるさうぢやありませんか、結構ですね。」と紳士は一寸弁髪の先に触つてみた。「それだのに何だつて貴方はこんな馬鹿げた物を下げてお居でになるんです。」 「さあ」と伍廷芳はじろりと相手の顔を見た。紳士は鼻の下にもじやもじやと口髭を伸ばしてゐた。「何だつて貴方はそんな馬鹿げた口髭なぞ生やしてお居でになります。」 「御挨拶ですね。」と紳士は苦笑《にがわらひ》した。これには理由《わけ》があるんです、私は口許《くちもと》が悪いもんですから、それで……」 「さうでせう。さうだらうと思つた。」と伍廷芳はにやりともせず畳みかけた。「貴方が仰有る事から察すると、何《ど》うも余りお口許が好《い》い方《かた》では無いやうだから ,:」