屈折的で重層的で、そして「あっ!」と驚く小説
『草の花』福永武彦(新潮文庫) えー、筆者の福永武彦という人は、文学史的に言いますと、「第2次戦後派」にあたる作家ですかね。大岡昇平なんかと同じですか。 野間宏や椎名麟三・埴谷雄高なんかの第1次戦後派の次ですかね。世代的には一緒でしょうが、「戦争」に対するとらえ方がさらに広がり「人間」そのものへのアプローチになり、第1次の人達に比べて、遙かに屈折的・重層的になっている方々ですね。 そんな中で、福永武彦は極めて理知的な小説展開をする人のようです。 「人のようです」と書くのは、実はこの筆者の小説を読んだのは、後述していますのと合わせて、二冊目であります。 そもそもこの「戦後派」の作家達というのは、私の「近代日本文学史読書体験」の中では、エアポケットに当たる方々で、ここ数年、毎年のように読書計画の目玉の一つに考えながら、なかなかいっこうに進まない方々であります。 (ついでの話ですが、私のその外の読書計画の「目玉」は後ふたつありまして、一つは自然主義小説、もう一つは、鴎外の「史伝」とまー、考えておるんですがー、前者は亀の歩みながら、ぼちぼち進んでいますが、鴎外の史伝については、現在ちょっと目途が立っていません。うーん。) さて、かつて一冊読んだ小説というのは、これです。 『風土』(新潮文庫) わりと長い小説です。新潮文庫で420ページほどあります。 とてもおもしろかったです。なんか、久々に読んだ本格的小説という感じがしましたね。 この福永氏のご子息が、これまた小説家の池澤夏樹氏でありますが、この人もディレッタントな感じの小説を書く人ですが、親父だけあって(?)、さらに「知的」な小説になっていますね。 上述しましたように、人間存在へのアプローチが屈折的・重層的で、そしてきわめて知的な小説。芸術と恋愛。感覚的には、なにかトーマス・マンの『ベニスに死す』みたいですが、あれほどストレートに「芸術」は出ていません。それよりもお話作りの構造的な骨格に感心しました。 第2次戦後派といえば、ちょうど三島由紀夫がそれに当たるのですが、そういえば『金閣寺』のような、とてもしっかりした構造です。 (『金閣寺』については、もうかなり昔に読んだきりなので、詳しくは覚えていませんが、でもこの『風土』よりも、もう少しできがよかったような記憶があります。) ただ終盤が少し尻すぼみになったような気がしましたね。 この作品は、作者にとっては若い頃の作品で、こう言った難点は、若書きの作品によくある物だといえばそんな風にも思います。 とにかくとてもおもしろかったです。 そして、この度、冒頭の小説を読んだのですが、まずストーリーの大枠を紹介がてら、例によって、新潮文庫の裏表紙にある一文です。こんな具合です。 研ぎ澄まされた理知ゆえに、青春の途上でめぐりあった藤木忍との純粋な愛に破れ、藤木の妹千枝子との恋にも挫折した汐見茂思。(略)まだ熟れきらぬ孤独な魂の愛と死を、透明な時間の中に昇華させた、青春の鎮魂歌である。 なるほど、恋愛小説なんだな、と。 姉妹二人に恋愛をしたのだな、と。 平安時代の女流歌人・和泉式部、為尊親王と弟の敦道親王の、二人の皇子とスキャンダラスな恋をした和泉式部の、逆パターンかな、と。 そう思って読み始めたんですね。 しかし、なかなかヒロインが登場してこないんですね。 あれー、と思って、私はもう一度、上記の新潮文庫裏表紙の一文を見直しました。 そして、思わず「あっ!」と、声を上げてしまいました。 この小説は、「姉妹」に恋愛するのではなく、「兄妹」に恋愛する小説なんだ! えー、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>