玄人好みの物語破壊小説
『挟み撃ち』後藤明生(講談社文芸文庫) 例えば、何でもいいんですが、……いや、何でもいいって事はありませんね。前言撤回。 例えば、筒井康隆の小説を初めて読むとして、その際の作品に日本語の音が一つずつ消えていく小説『唇に残像を』をチョイスしてしまったら、筒井康隆については正しく理解できるでしょうかね。 うーん、難しいような気はしますが、かなり出来そうな気もします。 変なことを書き始めたのは、今回報告の後藤明生の小説の、私にとってのファーストチョイスがこれなんですね。 上記に筒井康隆の例を引いて、どんなファーストチョイスでも、その作家についての理解はかなり可能だと書きました。だとすれば、なかなかこの筆者は苦悩の入り口から小説に入っている人だなぁと言う気がします。 少し持って回った書き方から始まってしまいましたが、一言で言うとこの小説は「小説破壊」の小説であります。少し流行っぽい言い方で書けば「メタ小説」ですかね。 内容まとめは極めて簡単です。文庫の解説者武田信明は、このようにまとめています。 ひとりの男が、お茶の水駅前の橋の中ほどに立っている。彼は、二十年前に着用していた旧陸軍の外套の行方が不意に気がかりになり、一日を費やしてあちこちを訪ね歩いたのである。男は佇みながら外套について、あるいは彼自身の過去について思いをめぐらせる。 本当にこれだけの小説なんですね。しかしこれは、実に玄人好みの小説だなとつくづく思います。 小説は、外套を探して次々と昔の記憶を辿っていきます。この記憶の掘り返しが、いわば果てることのない波のように、寄せては引き、また押し寄せては引いていくわけです。 それを克明に書いていくわけですから、これはまー、緻密な力業だと言い切っても間違いはないと思います。ただそれを「玄人好み」と書いたのは、なんといいますか、それがあまり面白くないからなんですね(私としては)。 しかしこの「面白くなさ」についても、筆者は自覚的であります。作品終盤に「わたし」という一人称の主人公は、自分のことを小説の主人公としてあまり適していないなどと書いています。「メタ」ですね。 さてここで私の想像はまたもや作品を離れていくわけですが、およそ、小説の主人公として相応しい条件は何なのか、ということであります。何でしょうね。 ぼんやりと考えていたんですが、単純にかつ箇条書きにまとめてみますと、こんなところですかねー。 1.非凡な人物の非凡な体験。 2.非凡な人物の平凡な体験。 3.平凡な人物の非凡な体験。 どうですか? こんな感じじゃないですか? しかし上記のようにまとめますと、一つ足りない、順列組み合わせで言って一つ足りないものがありますよね。当然「4.」として書かれるべきはずの、これ。 4.平凡な人物の平凡な体験。 実はこの小説は、この「4」なんじゃないかと、私は思っているんですね。 ただ、考えてもみてください、こんな「平凡な人物の平凡な体験」の小説なんて、一体誰が読みたいと思いますか。そんなの読んでいて楽しいですか。 しかし考えてみれば、日本文学史にある「自然主義」とか「私小説」とかいう流派はほぼこの「4」じゃなかったかしら。 多分そうだと思います。だから面白くなかったんですね。 でも、ここに日本の文学者は微妙な付加価値を付けていきました。それは、玄人好みの「文体」であります。職人じみた文章へのトリビアルなこだわりを深く深く追及していったんですね。そして世界でも極めて不思議な小説世界を作っていった、と。 (この「4」は、いわゆる日本の「純文学」には多そうですね。もしその事も考察の中に含めて箇条書きで表すなら、もう一つ「平凡・非凡な描写」あたりの要素を付け加える必要があるかも知れませんが、今回はパス。) 文学史のおさらいは以上として、さて今回の小説に戻ります。 この小説は、基本的に上記の「4」タイプの小説です。そして、その「付加価値」は(と言えるか言えないかはまるで分かりませんが)、ほとんど物語としての働きを持たないということであります。 それは、「因果関係がない」という言葉通り、物語の「原因」の追及もなければ「結果」の提示もないという、そういう意味ではきわめてオリジナリティの高い小説であります。 うーん、こういう「玄人好み」の一種実験作の集成が、一つの国の文学史を形作っていくわけでありますね。 なるほど、この様な小説の枠組みの多様性こそが、皮肉ではなく、名作の揺籃であるはずなのでありますよねー。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村