表現者としての父親と息子の問題
『母の影』北杜夫(新潮文庫) 少し前に、北杜夫が父親斎藤茂吉について書いた本を読みました。4冊連続する作品の第一冊目を読んだに過ぎませんでしたが、それだけでもなかなか面白かったです。 そしてその読書報告を本ブログに載せましたが、確かその時も書いたと思いますが、息子が父親の文学的業績を本格的に書いた本というのは、思いの外にないものであります。特に息子も父親と同業者(小説家などですね)の場合。 誰か、そんな「ペア」が浮かびますかね。 あるいは、父親を巡る身辺雑記みたいな軽い随筆や、また発行部数がきわめて少ない類のものならあったりもするんでしょうが。 漱石の息子が、父親について書いていたエッセイが、確かありましたね。……うちの本棚にもありました。『父・夏目漱石』夏目伸六というやつです。 父親と息子の確執というのは、古来大きな文学テーマの一つであったはずですが(『カラマーゾフの兄弟』とか、『ハムレット』とかもそんなテーマじゃなかったかしら)、父子が同業者で、それも文学者で、と言うことになるとまた別のものなんでしょうかね。 『カラマーゾフ…』なんかの場合は、普遍的な父と息子の問題ですものね。こういうのを取り上げるなら、日本にも何作か有名な父子の小説はありましたよね。 志賀直哉の『和解』とかはあきらかにそうだし、小説家で詩人の辻井喬も一連の作品で、強烈な個性の父親を描いていました。また、吉行淳之介の『砂の上の植物群』という一見「性」がテーマのように見える作品も、父子の課題が底流に流れていたように記憶しています。特に、吉行淳之介の場合は、父子ともに同業者(小説家)ですね。 さてもう一度、斎藤茂吉・北杜夫テーマに戻りますが、このペアのかなりオリジナルなところは、息子に比べまして、親父に対する文学的評価が圧倒的に高いというところです。(いえ、北杜夫の文学的評価が低いということを言いたいのではありません。北杜夫は北杜夫で優れた小説家ではありましょうが、あくまで相対的なものです。) それは例えていえば、「夏目漱石vs仮定の中で小説家であるとする漱石の息子」という感じで(短歌文学史における茂吉の評価は、きっと漱石くらいはあります)、これは少し考えただけでも、息子は頭上に巨大な岩石が存在しているようで、いかにもやりにくそうですよねー。 ちょっと話は飛ぶような気もするんですが、父親が圧倒的に大きな存在であって、という方の書いた文章を以前読んだ記憶があるのは、手塚治虫の息子さんの文章であります。 内容はだいぶ忘れているのですが、天才的な父親を持つ息子の大変さというものが、やはりかなり重苦しく書かれてあったように覚えています。 と言う風に、偉大な文学者の父を持った息子の「悲劇」は、今回の冒頭の作品の中にも再三描かれていますが、それに加えてもう一つ、茂吉-杜夫ペアの、杜夫側の感じている特殊性は、氏がこんな風な「異常」とも言えそうな環境下にあったことであります。 その日常を見ていると、どうしてこのような人物があれほど私が感動した歌を作ったのか奇妙にも思えてくるのだった。 もとよりそういう父に、その歌を読んで感動したことなど話せたものではなかった。私は父が散歩に出た留守に、ひそかに「赤光」「あらたま」などの歌集を取りだして、大学ノートにびっしりと筆写した。どうも茂吉という男は、その歌だけを読んでいるのが一番よいので、その生きている実物のそばにいることは息がつまりしんどくなる存在のようであった。 文中、大学ノートに茂吉の歌をびっしりと筆写するという記述がありますが、もちろん現代のようにコピー機などのない時代のことですので、歌集をすべて筆写するという行為の重みも、現代とは多少異なってくるとは思いますが、それでも筆者が茂吉の歌をほとんど全人格的に熱愛していたのは間違いありません。 ところがその歌の作者である実父については、およそ人格的に認めることができないというか、全くそりが合わないという、このアンビバレンツには、……うーん、なんか眩暈のしそうな距離感を感じますよねー。 さて冒頭の本書は、そんな強烈な個性の父親の存在を絶えず背後に感じつつ、そしてまたこの方も、少々「ユニーク」といっていい、茂吉の妻=筆者の母親について描いた作品であります。 本新潮文庫の裏カバーの紹介文には「自伝的小説」とありますが、これは明らかに両親並びに自らの幼少年期を綴った回想録(随想)であります。 そんな本書は、作品全体の緊密性にやや不満なところを持ちながらも、そもそもがそのような意図のものであると考えると、かなり「特殊・特別」な家庭環境に生育した表現者の自伝として、あるいは近現代日本史の一事例報告としても、十分な面白さを持つ作品であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村