感覚だけを手がかりに
『優雅で感傷的な日本野球』高橋源一郎(河出文庫) 確かにいろんなことを考えますね、こんな本を読むと。 たぶん、それが本書の魅力であり、そして出来の良しあしの分水嶺であろうと思うのですが、でもこの出来の良しあしのポイントは、考えればなかなか大変なことだということがわかります。 例えばこんな部分。 苦しい鍛錬の日々は続いた。 ある時は二時間以内に九百個の野球詩を作る荒行。 (略) 七十三。タイトル、センター。 ぼくは三十九年もセンターを守り およそ一万三千個のセンターフライを捕ってきた 考えてみれば フライを捕る時しか、空を見たことがない こんなフラグメントを読むと、なかなか詩的な印象を持ちますね。 われわれの好感覚をさらっとはけでなぞったような。 でも一方で、落ち着いてじっくりとにらんでみれば、こんなフラグメントは「落書き」みたいなものだと、失礼ながら、言えないこともありません。 小学校の頃、私は、ノートに教科書に、様々な落書きをしたことを思い出します。 その頃の私は少しだけ絵が得意で、そして漫画少年でしたから、時間つぶしに本当にあちこちに落書きをしました。(小さかった頃って、なぜあんなに後5分の授業が我慢できないと思ったりしたのでしょうかね。不思議ですね。) その中には、わりと上手に書けたなと自分で思える落書きがあったり、あ、駄目だと、途中で感じて鉛筆でくしゃくしゃにしてしまう落書きがあったりしました。 そしてそんな時の一つ一つの小さな「作品評価」は、すべて感覚が、感覚だけが行っているわけであります。 今回、冒頭の小説を読んで、こういった「ポストモダン」な小説は、読み手にいろんなイメージや古い記憶を呼び起こさせるのが、結局のところ狙いなのだろうと思うのですが、なんといいますか、その「方法論」みたいなものはあるのでしょうかね。 「方法論」というのは、もう少しスノッブな言い方をすれば、「ポストモダン小説の書き方」といったものですが、もちろんそんなものあるはずないではないかと考えますが、まてよ、そんなに簡単に否定できないんじゃないかとも思うんですね。 いつでも誰にでも有効な「ポストモダン小説の書き方」とまでは、なかなかいかないでしょうが、いろいろ考えてみると、例えば「中期の谷崎小説の書き方のツボ」とか、「漱石的三角関係小説の極意」みたいなものなら、なんとなくイメージできそうではありませんか。そんなことないですかね。 で、「中期の谷崎小説」のパターンで高橋源一郎の書く小説の「方法論」について少し考えてみた時、私は、これはなかなか大変だと気付いた次第であります。 なぜなら、ストーリー一つを取り上げてみても、普通のリアリズム小説ならば、それなりの「作業的手順」でこなせる部分がかなりあると思うのですが(上記の「谷崎小説」うんぬんなんかは、まさにそんな感じで、粘土をこねあげるような「段取り」部分がかなりありますよね)、どうなんでしょうか、その場その場で感覚勝負をしながら、「面白い」「面白くない」で作り上げていくストーリーは、それこそ息つく暇もないように思うのですが、どうなんでしょう。 だから、この筆者の小説は、モザイクのようになるのでしょうね。 一つのエピソードだけに絞り込んでは、おそらく長編小説は書ききれないのだと思います。 ふっと思い出すのですが、安倍公房の『箱男』なんかも、主たるストーリーはありましたが、ところどころにやはり「フラグメント」のようなものが散らしてありましたね。 公房の初期のシュールレアリズム作品は、短編が主流だったように思います。 われわれは、意味の手助けなしに、なかなか長い連続したイメージを持つことはできません。 そんなことでいえば、やはりこの筆者の様々な作品は(今回の本作だけに限らず)、かなりの力量による大いなる力技の仕事だと、私は思うのであります。……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村