「私小説」めいた小説を書くこと
『静かな生活』大江健三郎(講談社文芸文庫) まず、タイトルがいいですよね。 落ち着いた感じで、気品があって。 そもそも、小説なんていうものは落ち着いていない生活を語るもので、事実、本小説でも決して落ち着いた生活が語られているわけではなくて、恐喝や暴力や性的な事柄が語られていたりします。 だから、本当はちっとも落ち着いていません。 にも関わらず、このタイトルがいいなと思えるのは、やはり主人公で語り手である女子大生「マーちゃん」の設定にあるのだと思います。 そもそも大江健三郎は、いつごろからこんなきわめて「私小説」めいた作品を書いているのでしょうか。 そんなことを特に専門に研究したわけではないのでよくわかりませんが、確か芥川賞受賞の『飼育』という作品からして、戦争中の深い森の中の少年が主人公だったと覚えていますが、そこに実体験めいた感じはあったと思います。 その後の、何かのトラブルがあった時に一歩踏み出しきれない繊細かつ後退的な青年を描いていた多くの初期の短編も、私小説的とも読めそうでいて、しかし、それは時代の青年たちを集約した自画像であると感じられる読みも可能でした。 登場人物のモデルが明らかに作者めいてくるのは、やはり障がいを持つ長男が誕生なされ、その彼が作品中でとても大きな役割を持つ一連の作品が書かれてからのことと思います。 『個人的な体験』という、いかにも「個人的」なタイトルが付いた長編あたり以降ですね。 大江氏ほどの突出した才能の持ち主ですから、そうでなくてもきっと優れた作品群をたくさん生み出しただろうとは思うのですが、障がいを持つご長男「光さん」の出現が、大江氏に齎した文学的「豊饒」は計り知れないものがあります。 しかしその一方で、初期の作品の主人公のように、作者をモデルにしているようにも思えると同時に、読者の誰もに「これは私の話である」とも思わせる姿が、あきらかに作者モデルの物語になりました。 いえ、それを欠点ととらえているわけではありません。しかし、その後の大江作品の多くは、作家の父と障がいを持った息子の「コンビ」の物語となりました。 さて、今回の連作長編小説は、そんな家族の物語ではありますが、語られる主体=「視点」が大きく異なっています。 語り手で主人公であるのは、二十歳の女子大生「マーちゃん」であります。 彼女は、小説家「K」を父親と持ち、母親は「オユーさん」、そして障がいを持つ兄「イーヨー」と予備校生の弟「オーちゃん」という5人家族であります。 実際の小説家大江健三郎が自分の娘を主体にした一人称小説を描くのですが、しかし私は、そもそも自分がモデルである小説家「K」が出てきたり(作品中に「K」の書いた小説として『M/Tと森のフシギの物語』という実際に大江健三郎が書いた小説名が出てきたりします)、娘「マーちゃん」の内面を描くという設定に、なんといいますか、読んでいて少しはらはらした思いを持ってしまいます。例えばこんなところ。 それでいてイーヨーをプールで泳がせる決定について直接にはなにもいわないのも、父らしい態度に思えた。出発前、兄のスポーツのことであれこれ考え、私の前で口にしもしながら、自分では処理できなかったのにこだわっているのだ。私はまず家の洗面所を使って、着がえの練習をした。弟はめずらしく居間のテレヴィにゲームの機械をつないで気晴らしをしていたが、兄に呼びかける私の声の調子について、父が兄になにか困難なことをやらせる際の、過度な元気の良さと感じが似ている、と批評した。その通り。 前半部には、主人公「マーちゃん」が父親の小説家「K」を批判的に書いている場面が、そして後半部には、弟「オーちゃん」が主人公「マーちゃん」の行動をユーモラスに批評している場面が描かれています。 しかし読んでいてふっと、この小説がきわめて「私小説」的に書かれていることを思い出すと、さすればこのそれぞれの「批判」の主体と客体はどう絡み合っているのだろうかなどと考えられ、やや女性週刊誌的ではありますが、なんか、はらはらするものを、……どうでしょうか、つまり私なんかは感じたりするのであります。 そしてそんな「興味」は、私の中で間違いなく本作品の感想とか評価に反映してきます。(感情というレベルでは、きわめて好印象をもたらします。) そういう意味で見ますと、本作品はいわゆる「メタ小説」的構造を持っているのかなとも感じたりします。 実は、そんなふうに少しはらはらしつつ最後まで読んだのですが、小説部を読み終えた後に後書きのようなものがあって、そこでやはり筆者は、これに関することに触れてありました。 私は、やはりとも思ったのですが、それはちょっとここに書くのは控えておきます。 つくづく思うのですが、確か昔、筒井康隆が「小説を書くというのは一つの地獄である」と指摘なさっていましたが、ましてや「私小説」めいた作風を主にしている作家そして、その家族は、ちょっと、ほかでは考えられないような実に「個人的」かつ奇妙で大変な体験を日々なさっているのだなーと、……いえ、本当にご健闘をお祈りいたします。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村