「講演記録」を読むということ
『夏目漱石を読む』吉本隆明(ちくま文庫) 筆者の書いた後書きによりますと、本書は、1990年から1993年にかけて4回にわたって行った講演会をもとに構成した夏目漱石の作品論である、と。 講演記録だけれども、まったくそのままではなく、少しは整理してまとめたというエクスキューズみたいなものが書かれているのですが、でも、まー、やはり講演記録であるわけですね。 だから私も、もちろん楽しく読みましたが、それでも講演記録らしい、というか講演記録ならさもあろうと思う、少し不満な部分もあります。 それはまず、小説作品論でありながら、本文の引用による分析が極めて少ないということです。これは、講演会の状況を想像してみればよくわかりますね。もし手元に活字資料とか、せめて現在でならパワーポイントの類のモニター資料などがなければ、聴くだけでは本文分析はちょっと分かりづらいですね。それがひとつ。 もう一点は、上記の本文分析がない事とも関係しますが、筆者(話し手)の主張・意見を裏付ける論証部がかなり弱いということであります。でもこれも、講演会そのものをイメージすれば、そうもありなんと理解できると思います。 というふうに、冒頭から本書の「瑕疵」のようなことを書きましたが、私は、にもかかわらずとても興味深く本書を読んだということが言いたかったわけであります。 そのことは、これもしつこく本物の講演会を想像するとわかりますが、われわれはそんな風に感じつつも講演会に行くのだということであります。 つまり、話された内容について、もちろん納得のいかない場合は不満も残るでしょうが、とにかくあの人の話を聞きたい、あの人の話ならきっとどんな主張であってもある程度納得できるだろうと判断した講演会に、我々は実際に行くということです。 この度の読書についての楽しかったという感想も、吉本隆明の「言ったモン勝ち」ならまぁいいかというファンめいた信頼感が、私の中にあるというわけですね。 さてそう思いながらわたくしは読んでいきました。そしてそんな細かな「吉本隆明言ったモン勝ち」部も結構楽しみましたが、本書を通して大きなテーマとして筆者が主張している事柄は二つあると思いました。 一つは、漱石はなぜ今も大いに読まれるのかということ。 もう一つは、漱石はなぜ三角関係小説ばかり書いたのか、言い換えれば、漱石にとって三角関係小説はどういう意味があるのか、ということであります。 どうです、こうして問題提起の形で書き出してみると、どちらもとても興味深いテーマであることが分かりますね。 そしてこのテーマなら、さらに吉本隆明の言うことなら、まー、「言ったモン勝ち」でも聞いてみようかという気持ちになりますよねー。 で、この問題提起に対する筆者の主張ですが、実はそれは本書のいたるところに少しずつ形を変えながらフーガのように再三説かれています。こんな、「重複」と思えないわけでもない繰り返しも、いかにも講演記録的であります。 ここでは一か所だけ、それに触れた部分を引用してみますね。 漱石には暗い漱石、病気の漱石があります。それは宿命と葛藤する漱石です。この宿命の側にある漱石は、(中略)実生活上でいえば、赤ん坊のときに、四谷の古道具屋さんに預けられて夜店の店先に、籠に入れられて店晒しになっていた漱石です。この宿命の漱石が、どこまで行けたか、あるいは、宿命に抗うために、どれだけ刻苦努力して、気違いじみたところまで頑張ったか。その頑張り方は、日本の社会が、いろいろな文句をいわれながら、明治以降やってきた、えげつない面とよく頑張った面を象徴しています。そこには、反発も肯定もあったように、その日本社会の頑張り方と、漱石の頑張り方は似ており、そのために漱石はいまだによく読まれますし、また国民的作家ということになっているとおもいます。 筆者は、漱石の文学的業績を「宿命」に抗っていく姿だとまとめます。そしてその姿が西欧文明とまみえた明治日本の後進国的姿とパラフレーズするのだと説きます。 さらには漱石の抗った「宿命」の実体を、愛情と憎悪が混在する漱石の精神の病の上に置き(ひたすら三角関係小説を書いた原因です)、その病巣の奥には漱石の成育歴が、つまりは明治という時代の社会相の問題が、と繋いでいきます。 なるほどなー、と納得できそうでしょ。 でもこれらの主張の根拠について、本書にはあまり書かれていないのも事実であります。 さてそんな「講演記録」を、どう評価するか。 いえ、私は、繰り返しますが、とても興味深く読ませていただきました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村