「アヴァンギャルド」な「小説」
『室町小説集』花田清輝(講談社文芸文庫) まず、今回取り上げた作品のタイトルに注目してください。 しましたか。何て書いてありますか。 ……「小説」集とありますよね。間違いないですよね。 何を持って回った下らぬことを書いているのだとお嘆きの貴兄、どうもすみません。 しかし私は本書を読みながら、本当に何度となく「小説」というタイトルの文字を確認しました。 それはつまり、どうしてこの文章が小説なのだろうかと再三考えたと言うことであります。そして、本書のどこかにそのことについての「エクスキューズ」が書かれているのではないか、と。さもなければこの私の「小説」認識についての混乱は収束しない、と。 結局本文においてはそのような「エクスキューズ」はありませんでした。 しかし最後に「後書き」の形で、筆者自身による本書に触れた講演内容の抄録があり、そこにこう書かれています。 だいたい以上のようなことを書いたんですが、更にいうならば、日本の小説というものを否定することが僕の狙いなんで、それで小説という名前で書いているのです。 なるほど。「アヴァンギャルド」の方ですものね。 実はわたくし、花田清輝の作品は初めて読みました。 でも、きっとそれはわたくしだけではないと思うのですが、そもそも花田清輝が文学史上属している「第一次戦後派」の作家自体が、今ではほぼ読まれませんものね。(いえ、そんな風に私が勝手に思っているだけかも知れませんが。) と言うわけで、冒頭の表現に戻りますが、私は初めて花田清輝の「小説」を読み、この文章のどこが小説かと激しく戸惑いを得るに至ったわけであります。 そして、ではそもそも小説とはどんなことが書かれている文章なのかと考えました。 例えば、この文章。 主人は居間で鼾をかいて寝ている。あけ放ってある居間の窓には、下に風鈴をつけた吊荵が吊ってある。その風鈴が折り折り思い出したようにかすかに鳴る。その下には丈の高い石の頂を掘りくぼめた手水鉢がある。その上に伏せてある捲物の柄杓に、やんまが一疋止まって、羽を山形に垂れて動かずにいる。(森鴎外『阿部一族』) どうですか。 結局の所この文章に書かれてあるのは、「描写」と「説明(解釈)」といっていいのかなと思います。いえこの部分だけなら、かなり「描写」部が勝っていますね。しかし小説の文章とは、この「描写」と「説明」とが両輪になって成り立っていると考えられそうです。 ではこの二要素のうち、どちらがいわゆる「小説」っぽい部分かと言いますと、それはもちろん「描写」でしょう。誰でもそう思いますよね。 実は「小説」の重要な要素として、私は別に「虚構」と言うことも考えてみたのですが、日本の「私小説」を思い浮かべるまでもなく、「虚構」は必ずしも「小説」に最低限必要な要素ではありません。(本書の「小説」には「虚構」性はかなりあるそうです。物知らずな私にはよく分かりませんでしたが。) だとすると、「小説」と「非小説」の境界線は「描写」の有無にあるのではないか、と。 「描写」だけで成立している小説も、いくつかあるように思います。(さすがに短編が中心でしょうが。) そんな「小説」観を私は持っていたんですね。だから、混乱したのであります。 本書は、タイトル通り室町時代を背景とした文章なのですが、そのほとんどに「描写」がありません。つまりほぼ「説明」だけで書かれているんですね。 そうするとどんな文章になるか。 ……評論文ですね。随筆(エッセイ)といってもいいです。 わかりやすい例え方をしますと、司馬遼太郎の『坂の上の雲』と『この国のかたち』の違いですね。『この国のかたち』の文章で書かれた作品を、私たちは「小説」と呼んでいいものでしょうか。 もちろん「小説」とは、主に文章による表現であるならば(絵が入っている小説もたくさんありますものね)、何を「小説」と呼んでもいいのだという考え方はあるものの、やはり『この国のかたち』を「小説」と呼びながら文学論を行うことには抵抗、あるいは混乱がありませんか。 実は花田清輝の小説に「描写」がないことの批判は、埴谷雄高(花田の盟友と言ってもいい作家ですよね)もしているそうです。(以下、本書の解説によっています。) それに対して花田が反論をしているのですが、その論旨の中に上記の『阿部一族』に触れてこの様に書かれてあります。 殉死直前、昼寝をしている若い武士について書かれているくだりなどには、ありそうな情景であるとは考えながらもひどくそらぞらしい気がしてならないのだ。死ぬ前に寝るのはいい。ただ、そのくだりのディテールの描写に腹が立つのだ。(中略) 風鈴をつけた吊りシノブにも、柄杓を伏せた手水鉢にも我慢しよう。しかし、柄杓のうえに止まっているやんまのイメージにいたっては、ムダであり、思わせぶりであって、わたしには、そこらあたりに、鴎外の俗物性が、遺憾なく発揮されているような気がしてならないのだ。柄杓にやんまが止まっていたというのは、作者の出鱈目ではなかろうか。 ……「出鱈目」って、そもそも小説は出鱈目を書くものでしょう。 小説の持つ「俗物性」は生まれつきのものであり、それこそが小説の発展をもたらしたとは、確かわたくし丸谷才一の文章で読みました。 「描写に腹が立つ」って、要するに花田清輝は「描写」が嫌いなんですね。 ともあれ、そんな「アヴァンギャルド」といえば「アヴァンギャルド」な「小説」です。 「小説」らしい「描写」のほぼない「小説」なんて、どこででも読めるものではありません。そんな意味で言いますと、空前絶後(か、どうかは少々責任を持ちかねますが)、必見の「怪作」であります。 でも、そんなことを考えず、また私のようにヘンにタイトルにもこだわらず、歴史随筆だと思って読めば、少々難しい個所もありますが、それなりに楽しく読める読み物であります。 (なら「小説」で、やはりいいんでしょうか。……うーん、でも、なぁ。……。) よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村