性愛的世界の豊饒な変奏
『谷崎文学と肯定の欲望』河野多恵子(文藝春秋) 以前にも触れたことがありますが、何を隠そうわたくしは大学は文学部の出身で、それも日本文学を専攻しており、さらに谷崎潤一郎が卒業論文であったりました。そんなことで冒頭の本書はウン十年前に買った本であります。 学生時代は御多分に漏れず私も金穴ではありましたが、今思い出してみれば、生きるか死ぬかというような程度ではなく(それはむしろ近年の方が、「ブラック・バイト」などのマスコミニュースを見ていると甚だしくあるようで)、とにかく卒論関係の本も結構新刊の本も古本も買ったりしていました。 そんな一冊です。大層物持ちのいい人だなあと思われるかも知れませんが、本書が今だ手元にあるのは私にとっても例外であります。さすがに大学卒論関係の本はほとんど今は持っていません。 ではなぜ本書だけがウン十年も手元にあるのかというと、それは実は私にもよく分かりません。同様の谷崎関係の文芸評論書はあの頃何冊か買ったはずなのに、本書以外はほぼなくなっています。 まあ世の中には、振り返ってみてかつてなぜそんな選択をしたのか、その理由が我がごとながら不可解であるなんて山ほどある事、というか人生とはそんなものの集積で成り立っているのではないでしょうか。 だってあなたも、なぜ今の連れ合いと結婚したのか、振り返って理論立てて述べることができますか? ……まー、んなこと言われても、ねぇ。…… というわけですが、でもこれが原因の一つかなぁとぼんやりと思う要素はあります。 まず未読であったこと。もちろんぱらぱらとは(あるいは一部分だけ)読んでいたとは思いますが、全体を通してはたぶん未読でありました。 しかし確かに未読の本は捨てにくいものの、捨てた谷崎関係本にも少なからず未読本があったと思いますしねえぇ 今回読んでいて本書を捨てなかった理由として何となく思い出したのは、タイトルの良さと題字(外箱・背表紙・中表紙に書かれたタイトルの書道文字)が素晴らしかったせいではないか、と。 実際、黒地に金文字で書かれた背表紙の「谷崎文学と肯定の欲望」の書道文字は、見ていて心地よいほどに美しいと思いました。 そしてそのタイトルの谷崎文学の「肯定の欲望」とは何か、やっとここに辿りついたのですが、筆者はほぼ本書全体にわたってこの表現を用いています。それは、谷崎の精神世界の根底にある創作欲求の正体のことでありますが、簡単に、私の「誤読」も加えてそれを図式的にまとめるとこんな感じになります。 1、現世には「至上の楽土」のような楽園がきっとあるはずだ。 2、自分にとっての「至上の楽土」とはマゾヒズムの楽土である。 3、自分は文章能力・文学的才能に秀でている。 4、それを用いて自分は「至上の楽土」に辿り着けるはずだ。 ……こんな感じですかねぇ。 この「欲望」に従って谷崎作品はことごとく創作されたという主張と論証が、本書のテーマです。そしてその論証はなかなか難しくも(表現と説明がとっても詳しいんですね)、極めて興味深いものでありました。 本書の構成は5章に分かれていますが、各章で主だって取り上げられた谷崎作品を挙げますと、 1章・『卍』 2章・『蓼喰ふ虫』 3章・『春琴抄』 4章・『細雪』 5章・『鍵』『瘋癲老人日記』 となり、後期の主な谷崎作品を順を追って解説していくというありがちな展開ですが、そこに指摘されている事柄はとてもユニークで興味深いです。(ただし繰り返しますが、論証が緻密で深刻で結構難しく読書はなかなか進みません。) 例えば、と何を挙げればいいのか大いに迷うのですが、例えば谷崎作品には一人称小説(日記等の形式含む)が多く、また作中人物の男女の配分が一対一が多くそうでなくてもせいぜい同数であるのは、谷崎の嗜好するマゾヒズムの特色と関係があるという論証とか、そもそものマゾヒズムと対になっているサディズムとの根本的な違いとか(マゾヒズムは主体的サディズムは客体的、サディスティックなマゾヒズムはあるがマゾヒスティックなサディズムはないとか)、なかなか興味深い論考があります。 という風に挙げていきますと本書の報告は切りがありません。 それは、こういった性愛的な嗜好が現実の中でほとんど無限の変奏を持つからということでもありましょうが、その一典型を素晴らしい言語世界に定着させた未曾有の文豪・谷崎潤一郎への、筆者河野多恵子のそれこそ恋愛感情めいた「リスペクト」あるいは「オマージュ」であることは論を待ちません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村