リアリズムと介護小説
『龍の棲む家』玄侑宗久(文春文庫) この筆者の小説も初めて読みました。 ちょっと今回のテーマと関係ないことを考えるのですが、新聞の広告スペースに「今月の○○文庫新刊」みたいなのが載っているときがありますよね。近年私はそれもほとんど見ないのですが、なんかの拍子にチラリとそんなのを見ることがあります。するとこれが、知らない作者の新刊文庫ばかりなんですね。 それはまー、見事にそうで、恥ずかしながらわたくし、かつて大学の国文科というところを卒業して(考えれば大昔です)、まー、こんな偏ったブログを細々と続けたりして、それでも、新刊文庫作家の名前をほとんど聞いたことがないというのは、これはいったい何なのですかね。 そんなこと知らないと言われると全くその通りなんですが、まー、極私的話題で恐縮ながら、なんとなくため息の出てしまう現実であります。 ということは置いて、さて、本書の読書報告です。 文庫本の裏表紙にある文章に「痴呆症」という言葉があって(これが「認知症」でないのは、文庫の解説に少し書いてありますが、やはり2007年の新刊、2010年の文庫ということで少し古いせいだと思います。)、そして「無限の自由と人の絆を、美しい町を背景に描く。」とあります。 ここのところしばらく認知症関係の本なんかを読んでいて、そしてそこになかなか大変な現実が描かれていることにちょっと気のくさくさしていた私は、このフレーズにつられて本書を読んでみました。 で、はっきり言いますと、この本は、ちょっと現実離れな本であるな、と。 「無限の自由と人の絆」とありますが、そのようにざくっとまとめられないこともないとも思いつつ、やはり一種夢物語みたいになっているとしか判断できないお話ではないかと、ちょっとあっけにとられる感じで思いました。 上記に単行本が2007年発行と書きましたが、2000年から現在の介護保険制度は始まっており、本書のような介護者と被介護者の関係の成立は、すでに現実的ではなくなっているはずです。 筆者はそれを承知で書いているのでしょうが、読んでいる途中まで、そんなことも知らないで話を作って変じゃないかと思っていました。 すると終盤、介護者である独身女性(佳代子)と、被介護者の男性の息子(幹夫)が恋愛し、被介護者である父親も含んで同居生活に入ってしまいます。 あ、これは、恋愛小説なのか。じゃ、出会いや展開が少々変、でもいいのか。 (いや、やはり、いいとは思いませんがー。) そんな、ちょっと夢物語のような小説でした。 近代小説的リアリズムという目で読むと、おそらく突っ込みどころ満載の小説であります。 ただ、そんなふうに登場人物と展開がそろってお気楽であっても、テーマがテーマだけに、時々、はっとすることが書かれたりするんですね。 例えば、こんなところ。 父の様子が比較的落ちついており、佳代子にも余裕があったのだろう、散歩の道々二人はいつになく話し込んだ。話し込むといっても歩きながら、父の様子を見ながらだから、それは緩慢な、時間をかけた会話だった。「どうして人は、呆けるんでしょうね」 駅前の人通りを抜けたところで、幹夫が訊いた。「今の自分が、自分らしいと思えないからでしょう」 バイパスで、トラックが通り過ぎたあとに佳代子はようやく答えた。 いかがでしょうか。 実は私自身こんなエピソードを読んでいて、このエピソードが正しい(「正しい」は少し変な表現かもしれませんか)などとはちっとも思っていません。 そもそもの質問の立て方が過度に感傷的で、かなり非科学的な気がします。 しかし、にもかかわらず、私の中にはこんな非科学性こそ文学が引き受けるべきものだという思いがあります。 以前、ある牧師さんの講演会で聞いた話があります。 幼い娘さんが耳が聞こえなくなり、それにショックを受けた父親が、娘の耳はなぜ聞こえなくなったかと医者に詰め寄ります。医者は、こうこうした細菌によるこうこうした病状の……と説明を始めますが、父親はそれを遮って言います。私の訊きたいのはそんなことじゃない、なぜ娘の耳が聞こえなくなったかだ、と。 このお医者さんにとっては、極めて理不尽なエピソードですが、我々の心の中には、間違いなくこの非科学性があります。 牧師さんがこのエピソードを講演会で紹介したように、もしもこの非科学性を救うもの(あるいは寄り添ってあげられるもの)があるならば、それは一番に宗教、そして何番かあとに、必ずや文学がある(あってほしい)と、私は密かに考えるものであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記