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カテゴリ:明治期・反自然漱石
さて、前回から漱石の「前期三部作」を取り上げようと言うことで、その第一作について始めました。これですね。 『三四郎』夏目漱石(新潮文庫) えー、丸谷才一の文芸評論がとても面白くて、「よし、また読んでみるか」という気になったんですね。 そしてそんなところにまた、面白い文芸評論を読みました。これです。 『漱石と三人の読者』石原千秋(講談社現代新書) この作者は「受験もの」新書が、わりと有名な人ですが、本当の専門は日本近代文学、漱石なんかがやはり専門の方のようですね。実はよく存じ上げません。 この本が、上記の丸谷氏の本に輪をかけて面白かったです。 タイトルにある「三人の読者」とは、自らの小説の読者として漱石が考えていた三種類の読者像のことを言います。 一つ目の読者は、「木曜会」参加者という言い方が、最もわかりやすいと思います。漱石の弟子でもあるが小説のライバルでもある、同時に漱石にとってもっとも「顔のはっきり見える読者」です。 二つ目の読者は朝日新聞社入社後の、自らが書く新聞小説の読者として、最大公約数的に想定した読者。基本的には、インテリゲンチャで、文壇と関係を持たない大人の男性のことでしょうね。「何となく顔の見える存在としての読者」です。 そして三つ目は、作品ごとに異なってくる「顔のないのっぺりとした存在としての読者」。想定しづらいが、捨て置けない部分として存在する読者のことを指します。 もう少し具体的に言えば、例えば『虞美人草』では、漱石に「藤尾」を殺さないでと迫った読者。『三四郎』でいえば「お光さん」的存在と石原氏は解説しています。 少し脱線しますが、今回この本を読んで、下記に説く内容以外に面白かったものに、この「お光さん」の記述がありました。 三四郎の郷里の「真っ黒」な娘さんです。 『三四郎』最終章である第13章の直前に、三四郎は郷里に一度戻りますが、その時のことが全く触れられていないことについて、石原氏は「お光さん」との縁談が成立したのだと説きます。えっと、驚きますね。 なんだか最近はそんな、鬼面人を驚かすといった感じの研究が多いように思うんですが、どうなんでしょうね。正しいかどうかはともかく、なかなか面白い論だとは思いましたけれどもねー。 閑話休題。 さて石原氏の文芸評論は、一言で言うと、この三種類の読者像を漱石がきっちり意識しながら作品を書いていることの論証、といったところでしょうか。 本文中最も刺激的だったのが、『三四郎』中の、三四郎が美禰子と初めて出会うシーンの解釈でした。 実は、このとらえ方を初めてしたのは別の研究者で、1978、9年あたりらしいです。『三四郎』研究史上画期的な研究と述べられています。もう、だいぶ前になりますね。 私がまだ、自らの将来に明るい希望を抱いて日本文学を読んでいた頃であります。 うーん、あのころ、そんな研究があったんですね。 それは一言で言うと、「この場面で、美禰子はいったい誰を挑発したのか」ということです。 この読み方によると、美禰子は三四郎をほとんど(全く)愛していなかったことになり、二人の淡い恋の物語という『三四郎』の大前提のように思えていたものがことごとく崩れてしまいます。これは、なかなか刺激的ですよね。 もう少しだけ、具体的に書いてみますね。 三四郎は、東大キャンパス内の、後に「三四郎池」とよばれる池端で、団扇を持った美禰子と看護婦に初めて出会います。 最初やや離れていた両者でしたが、そぞろ歩きの如く美禰子が三四郎の方に近づいてきて、そして三四郎の前を通り過ぎていきます。その時、美禰子が二つの動作をするんですね。 ねっ、面白そうな場面でしょ。 では以下、次回に。 /font> にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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