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カテゴリ:平成期・平成期作家
『「吾輩は猫である」殺人事件』奥泉光(新潮文庫) 前回に引き続きまして、今回も、私の本ブログの基本的コンセプト(あくまで「基本的」であります)違反の作品を取り上げてみました。 参考までに、こんなコンセプトでした。 「作品選定の基準は、高校の『近代日本文学史』の教科書に準拠する。」 (『近代日本文学史』の教科書は、ブックオフで105円で買ってくる。) うーん、いずれ守れないコンセプトなら、いっそ変えてしまった方がマシかなー。 でも、(私としては)興味深い「文学のありようとは」について、考えさせられたものですからー。 その前にいつもながらの枕話。 少し前に、職場の読書好きの方と、読書を巡るこんな話をしていたんですね。 ここんところずっと、小説を始めとしてちょっと頑張って本を読んでいるんですが、その甲斐あってか、錯覚かなぁとも思うんですが、例えば毎日運動をしているとめきめきと筋肉がついてくるように、例えばダイエットがうまくいって体が目に見えてすっきりしてくるように、とはいかないまでも、何とはなしに小説の読み方が少しずつ分かってきたような気がするんですが、と。 しかし、……やっぱり錯覚でしたね。 やっぱり小説なんてちっとも分かりません。 特に今回、この本を読んで強く思いました。 この奥泉光という作家は、良く知らないのですが、中堅どころとでもいう年齢の、芥川賞や野間文芸新人賞なども、かつて受賞した方です。 推理小説についても造詣が深く(それは今回取り上げた作品のタイトルでもわかりますよね)、SF小説も書いて一定の評価がある(日本SF大賞の候補にもなったそうです)、要するに、はやりのクロスオーバージャンルの作家です。偉いものですねー。 でさらに、この文庫の元本は、例の「新潮社純文学書き下ろし特別作品」シリーズです。 そうですね。 大江健三郎の『洪水は我が魂に及び』や安部公房の『砂の女』『箱男』、遠藤周作の『沈黙』など、現代日本文学の最高峰の作品群が、綺羅星のごとく眩しくずらりと並ぶ、あの、あのシリーズであります。 (ところで、あのシリーズってまだあったんですかー。最近の作品はちっとも知らないもので、申し訳ございません。) 思うよねぇ、やっぱり。 つまり、好き嫌いや若干の出来不出来はあるとしても、要するに、この作品は現代文学の到達点の一つに違いないって。 ところがこれがわからない。って言うより面白くない。その上むちゃ長い。 新潮文庫で600ページを超えてしまっています。 私といたしましても、読書報告をネガティブな形にまとめるのは、何とも本意ではありません。誠に忸怩たるものがあります。 などと、政治家の言うようなことを書いてお茶を濁すのは、「誠に忸怩たるもの」がありますがー。 えー、そもそも、考えたら私は基本的なことがよく分からないのですが、推理小説にSF小説を加えるのはありなんでしょうかぁ? 例えば、密室殺人事件。 推理小説の華ですね。 作者ががっちりと仕掛けた密室・不可能犯罪を、我々読者は、ああでもないこうでもないと考えながら読んでいきます。 で最終章、おきまりの種明かしの段です。 で、ここで、もし探偵が真面目な顔をして、犯人はタイムマシンに乗って未来からやって来て殺人を犯しましたと言ったら、おい、どうする。君なら許すか。 こんなんありなんでしょうか。 でも、これに準じるような展開がこの本にあります。 いや、たぶん違うのでしょう。 作者の書きたかったのは、きっとこんなことではないのだと思います。推理小説仕立ては、結構を仮に借りただけなのでしょう。作者の狙いじゃありません。 作者の書きたかったこと、それは例えば「猫」の文体模写。 そして「猫」のディレッタンティズム。 要するに「猫」の持つトータルな雰囲気。 読者はきっと、これを読むべきなのだと思います。 ただ、仮にそうだとしても、漱石の「猫」の持つ海鼠(ナマコ)のような展開を模写するに当たって、推理小説の枠を持ち込むことは本当に正しい選択だったのでしょうか。 例えば、イギリスの本家本元コナン・ドイルのシャーロック・ホームズの諸作品の語りにも見られる、いかにも推理小説独特の読者を焦らせるような持って回った言い回しは、推理小説にとっては必要悪とも言える文体なのかも知れませんが、それをそのまま「猫」の文体模写に持ち込むのは、あるいは、しつこいだけのうんざりする冗漫さとなりはしないでしょうか。 私の読解力不足による誤解でありましょうか。 特にとても長いということもあって、うーん、やっぱり小説なんてちっとも分かりませんね。 では、今回はこんなこって。 /font> にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.07.21 06:37:37
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