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カテゴリ:昭和期・三十年女性
『なまみこ物語』円地文子(新潮文庫) 以前にも少し、ため息を漏らすように触れましたが、今更ながら僕は、いろいろな思いこみや偏見に満ちた生き方をしています。 もっとも、生きるということ自体が、ある意味偏った思いこみを持つことであり、そして、私が思うのはもう一つ、生きるということは「依存」することでありましょう。 「依存」につきましては、なんか、突拍子のない話題のような気もしますが、数年前に禁酒禁煙をした時の「悪戦苦闘」の経験から、生きることは何かに依存することだと僕は学びました。 そして、どうせ依存をするのなら、「しがいのある依存」(ちょっと変な言い方ですが)を目指そうと、いろいろ失敗しながら今日に至っております。はい。 (ついでながら、数年前に始めた禁酒禁煙ですが、まず開始時の状況は、一日に煙草30本程度、飲酒はほぼ毎日、日本酒換算で4合ほどを飲んでいました。現在は、禁煙は継続中、飲酒は週末に一日、缶ビール500ミリリットル3本であります。まー、生きることは依存をすることですからー、ということでー。) えー、なんでこんな話になったかといいますと、「思いこみ」の話でした。 冒頭の小説の読書報告ですが、私にはなぜか、「女流」(この言い方にすでに問題があるとも聞きますが、とりあえずそれはお許しいただいて)は恐い、という「思いこみ」があるんですね。 ただ、この思いこみは、決して「女流」を貶めるものではなく、「女流」は侮れないという高評価ゆえであります。 ちょっとしつこいですが、なぜ女流が侮れないと思うかについて、考えてみますね。 まずここで私が述べている「女流」の対象ですが、私の中では、それは、昭和時代までに活躍をなさった女性作家を指します。 現代の女性作家を含めないのは、一つには、僕がその方々の作品をよく知らないことと、もうひとつは、僕の考える「女流」を取り巻く社会的状況が、その方々とは異なるだろうと思うからです。 では、その社会的状況が「女流」にもたらすもの、それは、「女性作家として生きていくことの強烈なストレス」です。 少し前に、尾崎翠(あの名作『第七官界彷徨』の作者ですね)の伝記を読んでいたのですが、あれだけの才能の女性が、結局その才能を十分開花できずに亡くならざるを得なかった、彼女を取り巻く当時の社会的状況について触れられていました。 「女性作家として生きていくことの強烈なストレス」は今も残っているとお叱りを受けるかもしれませんが、どうなんでしょう? 寡聞にしてよく存じませんが、質・量とも、例えば与謝野晶子が十三人の子供を育てながら文学活動を行っていた頃、例えば林芙美子が赤貧の中で日記を綴っていた時、そして、尾崎翠が臨終時に、小説に専一に取り組めなかった自らの人生を慟哭したという時代と、やはり同じとはいえますまい。 ということで、やはり女流は侮れない。 「男流」作家には迫ってこない厳しい社会的状況の中で、女流作家として生き抜いてきた強烈な「芯」のようなものがあります。 で、それらのことを何となく怖がっていた私は、そこにはきっと豊穣な文学的結実があるのではないかとは思いつつ、「女流」を敬して遠ざけていたわけですが、少し前に、「そんなことでは、いかーん」と思い直しまして、冒頭の小説を読んでみました。 うーん、やはり、というか何というか、とっても面白かったです。 まるで谷崎張りの小説でありましたねー。 実際読んでいて僕は、谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』との親和性を何度も強く感じました。 作者は、冒頭から澄ました顔で「嘘」を付きます。(小説ですからもちろん嘘をついていいわけです。)絶品の嘘です。 実在しない「古物語」を挙げてきて、その内容を紹介しつつ作品世界へと入っていきます。 時代は平安時代、藤原道長、中宮定子、一条天皇などの住む王朝世界であります。 僕は、「偽書」の連想からなのか谷崎潤一郎を彷彿としましたが(そのほかにも、王朝世界とか『源氏物語』口語訳とか、円地氏から谷崎への連想のきっかけはいっぱいありますね)、「偽書」を作り出すという導入は、例えば『春琴抄』等にも見られる、中期以降の「日本回帰」の谷崎が得意とした「技」でありました。 しかし、この手法による虚構世界への導入は、実はなかなかハンパにできるものではなくて、書き手にかなりの「創作的力量」が要求される「荒技」であります。 そう言えば、村上春樹がデビュー作『風の歌を聴け』で、「デレック・ハートフィールド」という架空の小説家(「後書き」に、その墓に行ったという記述までつける念の入れよう)を書いていました。 なるほど村上氏は、現在日本作家唯一のノーベル文学賞の期待のかかる「巨匠」でありますものね。 さてタイトルの「なまみこ」とは、古文の「なま女房」なんかの「なま」やそうですね。「偽物の巫女」のことです。 しかしこうして、改めてタイトルに注目しますと、これだけですでに「浪漫主義」的でありますねー。 面白いお話がぎっしり一杯、詰まっていそうですねー。 うーん、「女流」、恐るべし。 そんなわけでこの作品は、以降、濃密な文学空間の中を展開していきます。 しかしなぜか、僕は読んでいて、中盤あたりから急にお話の推進力が衰えるような感じがしました。 前半にあれだけ綿密に作り上げた舞台装置が、最後まで十分生かし切れていないような気がしました。 はて、それは何であったのか。 僕のつまらない気のせい、勘違いなのかも知れません。 そんなことを言っても、芳醇な香りのような、いかにも物語らしい物語でしたので、僕は、もう少しこの作者を追っかけてみようかなという気に、久しぶりになったのでありました。 えー、今回はここまで。 /font> にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.07.28 05:49:11
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