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カテゴリ:明治期・耽美主義
『春琴抄』谷崎潤一郎(新潮文庫) 上記作品報告の二回目であります。 そもそもは、秦恒平氏の『名作の戯れ』という文芸評論を読みましたら、『春琴抄』の新解釈について、びっくりするような(「鬼面人を驚かす」ような)斬新な「読み」が書かれてありました。 腰が抜けそうに驚いた僕は、そこでそれを検証しようと、はるばる大学四年生以来の『春琴抄』読書に取り組んだのでありました。 ところがこれが、あっという間に「谷崎ワールド」に引き込まれてしまうんですねー。 えー、「谷崎ワールド」、確かに強烈に魅力的であります。 しかし、例えば前日の夜更けになかなかうまく書けたものだと思っていた「恋文」が、翌朝、朝日を浴びながらではとても平常心では読めないように(えー、この比喩って、分かるんでしょうか)、例えば経済活動をしている途中のちょっとした休み時間に谷崎の本をめくっても、これはいったいどこの世界の話で、且つ、いったい何語で書いてあるんだと、なんか目眩がしそうに「違和感」を覚えることがあるという経験を、わたくし今回致しました。 これは、学生時代ではできなかった経験ですよねー。 「谷崎ワールド」は、確かに、浮世離れしております。 (でもそんなことを言ったら、このブログ自身が、充分浮世離れしていますものねー。) ともあれそんな『春琴抄』の世界ですが、『鵙屋春琴伝』という偽書(これは偽書ですよねー)を紹介する形で話が始まっていきます。 このアプローチの仕方について、昔かなり感心しましたが、今回もやはり感心しました。 当たり前なのかも知れませんが、この設定は、筆者が縦横に仕掛けを張り巡らした結果であります。 僕は特に次の二点を考えました。 (1)偽書において春琴を絶賛した表現を、語りの部分で、例えばその信憑性に対して疑義を呈するなどの形を取ることで、物語世界を重層化し、その客観性を確保する。 (2)上記の形を取りながら、つまり、偽書における春琴への神格化を押さえる形を取りながら、実は予想される物語世界への批判を先取りして塞いでしまう。かつ、結果的には、表現として、偽書の春琴への絶賛は文字に定着・イメージ化される。 うーん、こうしてみると、恐ろしいような「策略」ですなー。 実際、この狙いは相乗効果となって、あたかも春琴像を、具体的に粘土を両手で捏ねるようにして、恐るべきリアリティーと共に形作っていきます。 まさに「悪いヤツほどよく眠る」ですなー(この表現は無意味ですー)。 ところが、にも関わらず、私としてはどうも「弱さ」を感じるところがあるんですがね。 どこかというと、それは春琴と佐助の「肉体的な交わり」なんです。 どうも、春琴と佐助が肉体的に結ばれる(子供が四人できています。養子に出すか、亡くなっていますが。)ところの描写・説明は、上記の悪魔のように素晴らしい谷崎の計略をもってしても「弱い」感じがします。 そもそもこの二人は、そういった肉体的関係を、やはり持たねばいけないのでしょうかね。 少し角度を変えてみたいと思いますが、次のような部分。 畢竟彼女の贅沢は甚だしく利己的なもので自分が奢りに耽るだけで何処かで差引をつけなければならぬ結局お鉢は奉公人に廻った。彼女の家庭では彼女一人が大名のような生活をし佐助以下の召使は極度の節約を強いられるため爪に火を灯すようにして暮らした この表現は、偽書内容への批判として描かれた部分ではあるでしょうが、こんなところは、春琴への絶賛でないのはもちろん、春琴讃美のイメージ化についても、疑問の残るところではないでしょうかね。 考えられるとすれば、 (1)客観性確保のためにやむなく書き込んだ。 (2)こういった部分も、春琴の魅力である。 私が気になるのはこの(2)ですね。 要するにマゾヒズムの奥深さであります。 例えばマゾヒズムにとって、そんな行為の果てに自らの死があっても、それは「快楽」であるといった程度のことは読んだことがあります(河野多恵子の小説にもそんなのがありますよね)。 でも、上記引用文みたいな箇所もそれに当てはまるのでしょうか。 さらに、春琴と佐助の肉体関係ですが、これはやはりなけりゃならないんでしょうかね。 実は僕は、このことを考えて、さらにグロテスクなイメージを手に入れたんですが、いくらなんでもちょっとここには書き込めません。 ともあれ、やはり、「性」の世界というものは、限りなく広そうであります。 谷崎潤一郎、えーっと、「浮世離れ」してますね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 /font> にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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