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2009.10.06
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  『風の又三郎』宮沢賢治(新潮文庫)

 前回からの続きです。前回のあらすじはこんなのでした。
 宮沢賢治の『春と修羅』の詩に感動した私は、その感動の余韻のまま、「苦手」であった賢治の本を手に取ったのでありました。めでたしめでたし。

 で、上記の作品は、「童話」、別の言い方で言えば「児童文学」ですね。どちらかといえば、「児童文学」ですかね。
 (この両者の区別については、「児童文学」のほうが、やや年長の読者を対象にしているかなと言う程度の僕の理解なんですがー。)

 で、やはり僕は、この「児童文学」というところにまず引っかかってしまうんですねー。
 「児童文学」とはなんぞや、と。もはや児童でも何でもない私が「児童文学」を読むのに何の意味があるのか、と。
 (しかし「私」って、つくづく理屈っぽいヤツですねー。)

 児童文学とは、やはり成長期の子供達の精神的な成長を促し、豊かにするという目的の元に作られた文学、とまとめるのがとりあえず妥当であろうと。
 そしてその目的のためには、やはり谷崎の『春琴抄』とか、川端の『眠れる美女』ではまずかろう。それなりの作品がいるであろうと。

 僕が考えますに、「児童文学」をプロットによって簡易に分類しますとこんな風になるのではないかと。

  A・「ファンタジー」
  B・現実的・日常的な話
  C・「ファンタジー」+日常的な話

 で、今回の上記本の各作品をこの分類に従って当てはめてみますと、「C」が多く、そして僕の好みもここにあると分かりました。
 例えば、『どんぐりと山猫』『オッペルと象』『なめとこ山の熊』なんかがそうですね。人間と「動物=自然」との交流が中心のお話です。
 一方『風の又三郎』なんかは「B」に入るんでしょうが、僕の好みから言えばやや外れます。

 とにかく、結論的に申しますと、当たり前ながら、「やはり賢治は面白い」と。
 今更お前は何を言っているのだと言われそうですが、「やはり賢治はうまい」と、大いに実感したのでありました。

 私のようなロートルにも「本気」で読む事ができて、かつ上質な「児童文学」である作品は、はて、そもそも児童文学に触れる機会の極端に乏しい私ゆえでありましょうか、他の作者がちょっと浮かびません(いえ、その原因は本当に私が児童文学に触れていないせいです)。

 例えば芥川の『蜘蛛の糸』なんかでも、児童文学としてはともかく、大人が読むには一種の「限界」を理解しつつ読む必要があると感じます。
 それはおそらく「人間性の簡略化」という事だと思いますが、これこそが、僕が児童文学を苦手とする原因ではないかと考えています。
 (太宰治の『走れメロス』は、ちょっと天才的な「別格」です。)

 さて最後に、今回の賢治のお話の中でひとつ、他作品と大きく異なる、気になった作品がありましたので、それを紹介してみます。『貝の火』というこんな話です。

 「ホモイ」という名前の小ウサギが、川に流されている雲雀の子を助けます。後日雲雀の両親がやってきて、御礼に「貝の火」という、持ち主が「大将」の様に偉くなれる宝物をホモイに差し出します。しかしその宝物によって万能感を手に入れたホモイは、どんどんうぬぼれを増長していき、とうとう最後には両目が見えなくなるという「罰」を受けてしまいます。

 こんな話です。
 これは一体なんでしょうね。人間が、人間以外の物に試される話というのは、古今東西たくさんあります。「浦島太郎の玉手箱」「パンドラの箱」「イザナギとイザナミの黄泉路の話」「鶴の恩返し」等々。

 なぜ、人は試され、そして、ことごとくが、良くない結果に終わるんでしょう。
 これは何でしょうね。
 私は思うのですが、少し悪く言えば、これは「自然の悪意」でしょうか。自然の持つ、人間への「恩恵」と相反する「破壊」の威力ですね。
 しかし、もう少し善意に解釈しますと、この「悪意」とは、「死」のメタファーであり、死ぬ存在としての人間の宿命ではありますが、それは同時に、「再生」への象徴でもあると。

 この『貝の火』という作品には、他の賢治作品には見えない、悪夢のような凶暴さが感じられます。幸か不幸か、賢治はこの手の方向の作品はさほど多く書かなかったようですが(実際は僕はそれほど賢治を読んでいないのでよくわかりません。『銀河鉄道の夜』あたりは少し微妙なところですかね。)、ひょっとするとあり得たかも知れないもう一つの賢治像を、少し、僕はこの作品に感じました。


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Last updated  2009.10.06 06:22:30
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