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2010.01.05
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  『朱を奪うもの』円地文子(新潮文庫)

 冒頭、いきなりの名文であります。

 その前にちょっと、新潮文庫裏表紙にある作品紹介文を引用してみます。

 自分の歯をすべて抜き去った宗像滋子は、過去に片方の乳を失い、さらに癌のため子宮を失った思い出とが重なり合い、もう二度と戻ってこない女体への悲痛におそわれる--

 抜歯後の上唇の痺れを感じながら、台の上の銀色の盆の中の抜き取られたばかりの歯を見て滋子は思います。

 もう抜けるだろう、抜けるだろうと、つい今朝まで舌の先で癖のように動かしつづけていたのに、今ぬきとって見るとこの根はこんなに深く肉に食入って、二センチ近くも埋っていたのである。滋子はその歯の肌をそっと触ってみて眼に触れる部分の滑らかな硬さと肉にくい込んでいた茶色の細い部分のざらざら粗い手当りにこの歯の自分の底から生え出、育ち、生き耐えて来た長い年月を思った。ものを噛む力の失われたこの歯を滋子は荷厄介にして早く抜けろ抜けろといじり散らして来たが、歯の肉に食い込んだ生命は思いの外に根深いのであった。摩滅した一本の歯に滋子はやるせない悔と愛着を感じた。自分の肉体と離れてしまった歯は、もうどんなに足擦りしても自分のものにはならない。自分の生命の一部の死んだのを正しくわが眼で見ているのである。歯はそのまま自分の骨に見えた。

 うーん、強烈な文ですねー。
 構造的でどっしりと分厚くて、丁寧で細かいところまで書き込まれている、見事な文であります。

 この後滋子は、上述の紹介文で触れた、自らの乳房と子宮の切除に思い及び、とうとう最後は、「宮刑」を受けた『史記』の司馬遷にまで連想が至ります。

 「裂帛の気合い」とは、こんな文章のことを言うんですかねー。
 この部分はまだ冒頭直後の個所であり、この先一体どこまで連れて行かれるのだろうかと、少しはらはらしながら僕は読み進めました。

 しかし話はその後、形としては回想に入っていき、描かれるのは滋子の幼年期の最初の記憶になります。

 この小説は、女性の『ヴィタ・セクスアリス』なんですかね。
 とりあえずこの本にあるのは、第一章の、性に目覚める前の官能性の予感から始まって、第五章、結婚初夜を迎えた翌朝の記述で終わっています。

 特に、上記の強烈な文章に続く第一章は、いまだ性の予感状態の記述でありながら、極めてきらびやかに濃厚に描かれています。
 その章題が、全体のタイトルの『朱を奪うもの』となっていることもむべなるかなという気がします。

 第一章の末尾は、こうなっています。

 紫の朱を奪うように滋子の生命はその黎明期から人工の光線に染められていた。

 これもなかなか派手な一文ですねー。
 しかし第一章は、冒頭の「気合い」の文章と合わせ、きっちりと「首尾一貫」した展開になっています。
 さらに僕は、わくわくしながら読み進めました。

 ところが、この先が、なんというか、このー、ちょっと、弱いんですね。
 冒頭からの官能性が展開の前面から押しやられ、主人公を取り囲む暗い時代の、煩わしい人間関係を追いかける筋になっていきます。

 うーん、この僕のまとめ方は、やや「不当」ですかねー。そんな気もします。
 でも例えば、同じような、幼少からの自らの性的嗜好に気づく谷崎潤一郎の小説は、その後もその独特な性的嗜好を、実に絢爛豪華に展開していますからねー。

 いえ、谷崎と比べるのは、間違っているのかも知れませんね。
 ただ、ちょっと、第二章以降の展開に不満を感じたものですから。

 しかし、この作品は、本当は三部作なんですね。僕の読んだここまでは、まだ第一部にしか過ぎないわけです。
 そうだろうなーとは思います。このままでは、あの天に昇った火柱のような勢いの冒頭の表現は、降りてくる先がありませんもの。

 この後、第二部第三部と読んでいくべきなんでしょうね。
 例えば、三島由紀夫の『豊饒の海』の第一巻『春の雪』について、最終巻の『天人五衰』のラストを読んだ後に振り返れば、なるほど趣が大いに異なってくるように。

 うーん、そうなのかー。
 では、頑張ってみますか。


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Last updated  2010.01.05 06:55:09
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