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2010.04.06
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カテゴリ:大正期・白樺派

  『青銅の基督』長与善郎(新潮文庫)

 上記作品の読書報告の後半であります。
 前半では「文句」ばっかり言っていまして、誠に申し訳なく思っております。
 しかし、後半も「不審点」だらけであります。

 さて、作品の時代は、徳川第四代将軍の治世であります。
 「切支丹物」であります。「裕佐」という南蛮鋳物師が、「転びバテレン」フェレラ(この人物の造型は、なかなか迫力があって凄いです)に依頼されて、青銅の基督像を描いた踏み絵を作るというお話しであります。

 このことは、テーマと大きく関わってくることなのですが、この小説を読んでいて、僕はなるほどと思ったことがあります。
 それは、そもそも踏み絵を作る職人は、どんな思いで踏み絵を作るのだろうかということです。信者や「シンパ」が踏みやすいようなキリスト像を、と考えて作るんでしょうか。それとも、とても踏めそうもないような「神々しい」キリスト像を目指して作るんでしょうか。

 少し考えると気がつきますが、「作品」として踏み絵を作る人にとっては、これはどうにも解決しようのない「二律背反」であります。

 (作品においてはもう一工夫、鋳物師の恋人である切支丹が踏む可能性の高い踏み絵、となっています。うーん、この辺はうまいですねー。)

 ともあれ僕は、この辺の論理と、その論理を抱く人間の描かれ方について、よくわからない感想を持ったわけです。

 まず、踏み絵を依頼したフェレラは、こんな風に言っています。

 「何も作品としてそう非常な傑作でなくともいいのです。只本当の信者がいくら自分をごまかそうと思ってもつい気が咎めてそれを踏みにくくなるだけの一種の神聖さ、--信者にとっての犯し難い威厳と云ったようなものがそこに現れてさえいればよいので、その程度に作って頂ければ御礼は奉行から相当に差し上げられる事になっているのです」

 ところがこんなのが出来てしまうわけですね。前回少し触れた「遊女」の科白です。

 「つまりあの聖像はあんまりよく出来すぎたのよ。無論妾は見た訳じゃないけれど、お役人達は、たしかに貴方のお作の神聖な力に打たれたのよ。それであんな物を切支丹に見せたらそれを踏む気はしなくって、却ってなお有り難がって信心深くなるだろうって云うのよ。そしてあんな神々しいものを作る事が出来る貴方自身も矢っ張り切支丹にちがいないと云う事になったのよ」

 この理論は、何というかー、やはり穿ちすぎじゃないですかねー。
 そしてさらに、役人に捕まった裕佐は、奉行にこんなことを言います。

 「しかし君達が僕を疑り出したのは君達に頼まれたので僕が作ったあの踏絵からではないか」と裕佐は云った。「だから僕はそれを踏んでやろう。何なら、それをここでぶちこわして見せてやろう。君達の眼の前で」

 出来の良すぎる踏み絵と制作者の関係という、なんか少し支離滅裂な感じのする理論もさることながら、さて、ここにさらにもう一つ「不審点」が現れました。

 それは、全く信仰心の欠片もないような(人間性においても多分に問題点のありそうな)者が、はたして人を感動させずにおかないような宗教的作品を作りうるものだろうか、ということであります。

 ふーむ、白樺派の「理論」としては、むしろ逆なんじゃないんでしょうかねー。
 人間性が反映されてこその芸術性、と。

 僕はどこかで読み違えているんでしょうか。
 僕などの理解力ではよく分からないこんな展開で、この小説は、終盤、一気に雪崩をうったように進んでいきます。それは全く、あれよあれよというような急転直下であります。

 そこに至るまでの、登場人物が良からず悪からず「ほんのり」と進んでいた書きぶりが、僕にはわりと好ましく感じられていただけに、最後、唖然としてしまいました。
 でも本当は、そんなに後味の悪い小説ではなかったんですがね。


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Last updated  2010.04.06 06:34:18
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