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カテゴリ:明治期・耽美主義
『猫と庄造と二人のおんな』谷崎潤一郎(新潮文庫) (略)やがてリリーは部屋の隅ッこの方へ行って、壁にぴったり寄り添うてうずくまったまま、身動き一つしないようになってしまった。それは全く、畜生ながらも逃れる道のないことを悟って、観念の眼を閉じたとでも云うのであろうか。人間だったら、大きな悲しみに鎖された余り、あらゆる希望を抛って、死を覚悟したと云うところでもあろうか。品子は薄気味悪くなって、生きているかどうかを確かめるために、そうっと傍へ寄って行って、抱き起してみ、呼吸を調べてみ、突き動かしてみると、何をされても抵抗しない代りに、まるで鮑の身のように体じゅうを引き締めて、固くなっている様が指先に感じられる。 このお話は、昔、たぶん大学時代に一度読みました。 そしてこの度、全く久しぶりに読み直してみて、少しびっくりしました。 異様に高いリーダビリティであります。この見事な文章を、上記に抜き出したあたりからも読み取れるか、うまく抜き出せたか少し心許ないのですが、しかし全くもって見事な文章であります。 読んでいて私は、身体の中に広く染み渡ってくるような快さを感じましたが、文章を読んでこんな快感を覚えたのは、全く傾向の異なる文体でありながら森鴎外の小説作品(特に小説から史伝へと向かう間際あたりの)以来だと思いました。 そんな、少し「異様」とまで感じてしまう名文であります。 しかし、この「ワン・シッティング」のリーダビリティの高さは、やはりかつて何かの小説で経験したことがあるぞと、あれこれ思い出して、見つけました。 あ、村上春樹だな、と。 具体的に僕が「ワン・シッティング」のリーダビリティとして思い出した作品は、『ねじまき鳥クロニクル』でしたが、うーん、なるほどねー。 かたや、日本人初のノーベル文学賞受賞作家の最右翼と再三言われながらも、結局受賞することなく天寿を全うしてしまった作家と、かたや今年こそ今年こそと、こちらもいわれ続け、おそらく数年以内には間違いなく受賞するだろうといわれている作家との接点であります。 (これは、閑話ですが、村上春樹はかつて「主夫」をしていた時に、暇に任せて『細雪』を三度読み返したと、確かエッセイに書いていたのを思い出しました。) ともあれ、圧倒的な名文によって一気に読んでしまった本作ですが、それでも読後感想として気になる点がないでもなかったです。これです。 疑問……「谷崎はなぜこんな作品を書いたのか。」 本来は谷崎の作品については、このような疑問はあまり抱かないものですね。 なぜかと言うに、谷崎は、我々が思う以上に、自らの私生活上の内面的な姿に直結するような作品を「素直」に書き続けてきたからです。 つまり、作品を読めば、その時の谷崎の「欲望」がわかる、と。 『痴人の愛』を読めばその頃の、『春琴抄』を読めばその頃の、谷崎が女性に対して抱いていた欲望(女性以外に対する「欲望」はほぼないと考えて、まー、いいでしょう)がわかると。 実際はもう少し複雑ではあるでしょうが、大筋においてはそう考えて大過ないと思われます。 ところがさて、本作であります。 あの一世一代の名作『春琴抄』の翌年に書かれた本作からは、上記の「ルール」のようには、作者の意図は読めないように思いました。 そこであれこれ考えたのですが、……ふーむ。 実は谷崎潤一郎は、僕の大学の卒業論文であります。恥ずかしながら、かつて学んだことを、少しずつ少しずつ、ぽつぽつと思い出してきたんですね。 今回思い出したのは、『痴人の愛』=『赤い屋根』関係でありました。 『痴人の愛』は有名な名作ですが、『赤い屋根』は、たぶん現在では全集以外では眼にすることが出来ない、未完の、はっきり言って余り出来のよくない作品であります。 しかし、『痴人の愛』の翌年に書かれたこの「不振作」には、見事に『痴人の愛』の種明かしが書かれています。 『痴人の愛』的陶酔の舞台裏が書かれ、そしてというか案の定というか、完成することなく歪な姿を曝してしまった小説であります。 そもそも谷崎的陶酔・谷崎的世界には、リアリズムは不要であります。 そしてそのことを『赤い屋根』で学んだ谷崎が、今回『春琴抄』という名作の舞台裏を、リアリズムを駆使することなくお伽噺のように描いたのが、本作ではなかったでしょうか。 登場人物は、作者の姿から大きく離れ、かつ今までの作品世界の人物をも遙かに突き抜けた「痴人」の男女の姿と、そして、一匹の恐ろしく見事に造形された猫でありました。 今回の再読を通して僕は、この舞台裏に、尋常には存在しえない魅力的な迷宮が含まれていることに、ただただ舌を巻きながら感心するばかりでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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